今週の民治さん(大河ドラマ『八重の桜』)
清水紘治の役柄:新島襄の父親、民治。上州安中藩で藩主の祐筆を務めていた。自宅で書道塾を開いていたらしい。襄のことを本名の「七五三太(しめた)」と呼ぶ数少ない登場人物のうちの一人。息子と違って裁縫はできない。
第40話「妻のはったり」
京都府議会をめぐる大河ドラマパートと、新島襄と愉快な仲間達の学園ドラマパート(あるいは朝ドラパート)で構成される第40話。タイトルは「妻のはったり」より、大河ドラマ本にあった「嘘から出たまこと」のほうが合っていたような気がします。
感想。「清水紘治は朝の連続テレビ小説には合わないと思っていたけれど、実際見てみると思ったほどの違和感はありませんでした。」 いやいやいや……大河ドラマというよりは時代設定の古い、昔風の「朝の連続テレビ小説」を三本立てで見たような感じでした。夫が校長で学園ドラマ、みたいな。今回はさすがの清水さんでも「そこだけ大河ドラマ」というわけにはいかなかった。でも「江」の時のような「北条家パートだけ雰囲気が違って浮きまくってるじゃないですか!」という感はありませんでした。若干コントっぽかったのは高嶋兄(京都府知事)の顔芸ぐらいで(笑)この人を見ると尼子の若当主を思い出します。そういえば、高嶋兄、西島秀俊に清水さんと「毛利元就」キャストが揃っているなぁ。ピンクレキャストが異様に少ないので三人いるとすごく目立つような印象です。西島秀俊が相変わらず内省的で賢そうな雰囲気を醸し出していました。この人のこういうところは結構好きですよ、私は。
民治さんの外見は晩年の勝海舟が髷を結ったような感じでした。まぁ、若い頃もよく似てますもんね。周りが学園ドラマな中、一人激シブな風情を漂わせる清水さん。煙管を吸う仕草に趣があって素敵でした。某所では「襄の親父は戦国武将にしかみえない」とか「戦国時代の人」「戦国時代の小国の大名みたいな風貌」等々面白い感想が出ていました(笑)皆が皆、江戸時代を通り越して「戦国時代」と言うところが妙にツボにはまってしばらく一人で受けてしまいました。
初登場シーン、実に気難しそうなお父さんだったのですが、ちょっと頑固だけれど普通にいいお父さんの役でした。あの時代の人なら殿の祐筆という職務を誇りに思うのは当然のことだと思いますし、それを放り出してしまった跡継ぎ息子に「何を考えているのかわからん」とこぼすのも無理もないことです。それでも夫を「襄」と呼び捨てる嫁に対しても嫁がみつかっただけでありがたい、とか意外に物わかりがよい態度を見せたり、意外なユーモアのセンスを見せたり。一見いかにも気難しい、厳しい父親のように見せかけて実はそうではありませんでした、というキャスティングを逆手に取ったパターンです。このパターンは何度か見ているのでもう新鮮味に欠けますが(笑)幼少の襄が木から落ちた時の額の傷の縫合を出血に恐れをなした医者が途中で投げ出したので自分が縫った、と八重に語る民治さん。八重の「襄は素晴らしい夫です!…料理もお裁縫も上手で」と見当違いなフォローに対して飽きれた顔をしていたわりに、「わしはあれと違って裁縫はできん」と言って八重を微笑ませます。意外に冗談のわかる父上です。「私が縫ったらあんな傷に…」と傷が残ってしまったのを気にしている様子を見せるところがたぶん襄には見せない優しい父親の顔なんだろうなぁ、と思いました。
気になったこと。
・会津の「什の掟」に「虚言を言うことはなりませぬ」ってありませんでしたっけ?会津藩時代のドラマを見ていないし、女は適用外なのかもしれませんけれども何だかなぁ。
・学生は給与をもらって労働しているわけではないので、講義に出ないことを「ストライキ」というのはおかしい。サボタージュ、あるいはボイコットではないだろうか。
・襄は史実では帰国してすぐ安中で家族と再会し、襄の両親は、襄の布教によりキリスト教徒になったようです。だとすれば、民治さんに「京都で耶蘇などやるのがどうかしているんだ」と言わせてしまったのはいただけない。襄の父親を保守派の頑固親父というキャラクターに設定しているのはわかりますが、いくらでも他の台詞でそれは表現できると思うのです。「よりによって京都で」という意味なら「耶蘇」という言葉は使わないでしょうし。史実なのか創作なのか知りませんが、前回、八重の母が洗礼を受けると言い出すシーンがあっただけになおさら、なぜ敢えてこういう改変をしたのかわからないし、無神経な脚本だと思いました。
第44話「襄の遺言」
アバンタイトルは大河ドラマパート+突如スイスで病に倒れる襄。視聴者はどうして襄がスイスにいるのかわからないんですけれども…。時系列をいじってあのシーンを冒頭に持ってきた意味ってあったかなぁ。襄の手紙と遺言が届くシーンを冒頭に持ってきて、インパクトを狙うというならまだわかりますが。
父上の登場シーンは2箇所。その1、渡欧前の支度中、気分が盛り上がってラブラブしている襄と八重のところに現れて咳払い(笑)「わしらも、その…なんだ、異人のようにノックをするくせをつけなければならんな」と笑い混じりに声をかける意外にお茶目さんな父上…(笑)はじめに八重が「襄」と呼び捨てにしたところもそうでしたが、ちょっと気まずくなりそうなところをうまく流してくれる父上が素敵。この場面の清水さんの演技がすごく好きです。短いシーンなのですが欧州へ旅立つ息子を言葉少なに気遣う父親の気持が表現されていてぐっと来ました。大河ドラマではこういう「お父さん」という役柄は珍しいので、感慨深かったです(笑)というか普通のドラマでも父親要素がメインの役というのは珍しいのですが。その2、間違って発送されてしまった遺言に慌てた襄が「先の手紙は間違いです」という手紙を送るのですが、遺言を飛び越してその手紙が先に届いてしまい首をかしげる八重。そこへ「七五三太から手紙が来た」と手紙を持ってくる父上。異国の地で死を覚悟した襄の言葉を読む八重とそれを聞く覚馬と民治のシーンです。民治さんとしては、頼りないと思っていた息子がこんな覚悟で…と思ったはずで、そういう父親の想いを終始無言で表現する清水さんの演技に見とれていました。
父上絡み以外のその他色々。襄のいない間に勃発した外国人教師と八重の対立を、自分が辞めることでおさめた佐久が男前でした。とりあえず、綾瀬はいい加減少しは老けメイクをしたほうがいいです。女学生と区別がつかなくておかしなことになってますから。元藩主の義理の姉?も幾つの役なんだか。佐久役の風吹ジュンを少しは見習って欲しい。覚馬ももう少し老けさせたほうがいいと思います。あれだと状況説明が不足していて時栄がちょっと不憫です。というわけで(?)大河パートと朝ドラパートの二部構成だった「八重の桜」ですが、今回からドロドロの昼メロパートを加えて三部構成になります(笑)今回も散々メロドラマな回でなんか厭だったなぁ。私は西島演じる覚馬が好きなので気分よくない、できれば見たくないです。父上が出なければいやな思いしてまで見なくてもいいんですが(笑)
今週の痛恨の一事。予告に一瞬映った襄の手紙を持った民治のシーンが本編になかった。……前回分……消しちゃったんですよね、私……。こういうこともあるのか…ひとつ利巧になったね、私…(涙)
第45話「不義の噂」
先週見たくないって書いたのに(笑)こんな回を見るぐらいならJRのキャンペーンのようなタイトルの第42話「襄と行く会津」に出て欲しかった。まぁ、アバンタイトルだけの出演だったのでかろうじて持ち堪えましたが。今回はアバンタイトルだけで髷結った人が二人出ましたよ!(清水さんと松方弘樹。松方は顔役っぽい京の商人役?)襄の父・民治さんは髷を結っていますが、明治12年(1879年)に髷を結っている人ってどういう設定なんでしょう?製作側の意図するところ、と言う意味で。めったにいないぐらい珍しい保守的な感じなのか、老人ならそう珍しくもないのか。断髪令(散髪脱刀令)が定められた明治4年(1871年)に68歳だった老人が髷を切るかといわれたら、まぁ切らないだろうなぁというのが私の感覚なんですが。清水さんの髷とワッフルに盛大な違和感が…(笑)ワッフルを食べようとしていても「戦国大名みたいな義父」と評される清水さん萌え(笑)襄の父母と八重はすっかり和やかムードです。
伊藤博文が総理大臣になった、ととってつけたような大河ドラマパートを1カット作ってありましたが、今回は昼ドラパート99%でお送りします!というわけで本編の感想はパスで。本編がドロドロメロドラマなので襄が爽やかで可愛くてほっとしました。吊り橋効果でオダギリジョーの襄のことを好きになってしまいそうです(爆笑)
次回予告で床に臥せっていたので、次回で父上はさよならかなぁ…。予告編の台詞は誰に向かっていう台詞なんだろう。「子は思うようにはならんと心得ておくといい」と言ってましたが、姪の母親代わりになろうとしている八重に? 覚馬の娘のことかな。次回、「駆け落ち」。不義とか駆け落ちとか、もうやだ、この大河ドラマ。
第46話「駆け落ち」
覚馬の娘二人の話だったのに、覚馬の出番が少ないなぁと思ったわたくしでした。しかしタイトルの変更が多い大河ドラマですね。「明治の青春」のほうがよかったと思いますけど。せめて、タイトルだけでも大河ドラマらしく(笑)
父上最後の見せ場は、風邪をこじらせて寝込んだ病床。姪の母親代わりになろうとして苦戦している八重が珍しく弱音をはき、その八重に対して民治は「子は思うようにはならんと心得ておくといい」と言います。傍らで困った顔をしている襄に「断りもなくアメリカに渡ってくれてよかった」と言い、「相談されたら反対せねばならんところだった」と続けます。「子を信じきるということは、親にとって一番難しい」という言葉は半ば自分の息子である襄に、半ば姪の親代わりになろうと八重に向けられた親としての想い。これが後半の駆け落ちしようとする覚馬の娘・久栄と徳富健次郎を八重が説得するシーンに繋がっていくよい台詞なのです。襄の額の傷を撫でながら「京に耶蘇の大学ができたら愉快であろうな……七五三太、励めよ」と言葉をかけるシーンの表情がすごく優しくて、さすがだなぁ、上手いなぁと思いながら見ていました。「愉快であろうな」ですごく楽しそうに笑っているところも好き。いい父上だ……。第40話の「京都で耶蘇などやるのがどうかしている」という台詞はこのシーンのためにあったんだ、と曲解しておきます。第40話「どうかしている」→第44話 襄の遺言を聞く無言のシーン →第46話「京に耶蘇の大学ができたら…」で、民治・襄の父子のストーリーが綺麗にまとまっていたという意味で、今回は登場話数のわりには扱いがよかったなぁ、と思いました。まぁ、民治に注目して見ているからそう思うんでしょうけれども(笑)父を偲んで、父の煙管で吸えない煙草を吸ってむせてしまう襄もかわいくて、胸がキュンとしました☆(←なんか「胸キュン」の使い方が間違っている気がしないでもない)病床の民治の場面は、全体に地味ですがいいシーンでした。事切れる描写こそありませんでしたが、実質、退場シーン≒臨終シーンだったと思いますし。
今回の新島民治は、珍しく父親要素のみで成立する役でした。で、父親役の場合には、娘がいる父親の役が印象的な清水さんですが、たまに息子がいると意外に(失礼)いいお父さんだったりします。「変装捜査官」の華道の家元役とか。今回も初登場の回に襄が面と向かうと話し難いというようなことを言っていましたが、いいお父さんでしたね。今日なんかは、超優しかったし。ああいう和やかな父子のシーンを清水さんが演じていると幸せになる私です(笑)しかし、風邪で寝込んでそのまま死亡というか、たぶん家族に看取られて畳の上で最期を迎えそうな清水さんって珍しいなぁ。ところで、あの幸薄そうな、昔さも美人だったっぽい襄のお母さんは、このまま見せ場無しなんでしょうか。いつもひっそりした風情にぐっとくるお母様なんですけれども。
登場最終話に至って驚いたこと、ナレーションで「たみじ」と言われていたこと。調べものをしていてどこかで「たみはる」とルビがふってあるのを見てずっとそう読んでいたんですけれども間違っていたのだろうか。