空と文字(SKY)

インドの国内SARS患者数
WHO報告登録数と新聞報道との乖離

2003年5月1日アップ(5月3日一部改訂)


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 5月1日付けのインド各紙は「インド国内で新たに9名のSARS陽性患者が発生し、インドのSARS患者は合計19例となった。」と報じております。一方で4月30日にはWHOのSARS患者累積統計表からインドの国名が消えました。これは4月21日WHOに報告・登録されていた「1例」も削除され、インド国内でWHOの定義に合致するSARS(可能性以上)患者は1例も発生していないことを意味しています。

 一体この数字の乖離をどのように解釈して良いのか皆様も頭を悩ませていらっしゃることでしょう。そこで現時点までに医務官が収集した情報をもとに皆様にできるだけ分かりやすい言葉でこの「数字の乖離」について説明させていただきます。患者発生の勢いや検査法の科学的妥当性の評価は時時刻刻変化しますので、この説明はあくまでも2003年5月1日時点のものとご了解ください。

1)SARSの定義:
WHOはSARSの定義を以下のように定めています。

○ 疑い例
2002年11月1日以降に以下の全ての症状を示して受診した患者で  
・  38度以上の急な発熱
・  咳、呼吸困難感などの呼吸器症状
かつ、以下のいずれかを満たす者  
・  発症前、10日以内に、原因不明の重症急性呼吸器症候群の発生が報告されている地域(WHOが公表したSARSの伝播確認地域)へ旅行した者
 ・  発症前、10日以内に、原因不明の重症急性呼吸器症候群の症例を看護・介護するか、同居しているか、患者の気道分泌物、体液に触れた者

○ 可能性例
疑い例であって、  
・  胸部レントゲン写真で肺炎、または呼吸窮迫症候群の所見を示す者
 または  
・  原因不明の呼吸器疾患で死亡し、剖検により呼吸窮迫症候群の病理学的所見を示した者

なんだか難しそうですが、基本は患者さんの「臨床症状」と旅行歴や生活歴などの「疫学情報」に基づいたもので、決して「検査結果」に基づいてSARS患者と断定したり、疑ったりしないということです。(WHOの定義は5月1日に再度改訂されました。これは検査結果も考慮するというものです。しかしこれについて述べると話は更に複雑になりますので、ここではインドの1例が削除された4月30日までの定義で話を進めます。)

2)SARSウイルス感染を証明する検査法:
今回のSARSの世界的広がりの中で、世界中の医療関係者、研究者はできるだけ早く精度が高くまたできるだけ早い時期にSARSウイルスが検出できるような検査法を確立しようと国際的な協力体制を築きました。3つに大別されるSARSウイルスの検査法の中でPCR法(正確にはRT-PCR法)は特異性(SARSウイルスに感染していないならば検査結果は陰性になる程度)が高く、感受性(SARSウイルスに感染していれば検査結果が陽性になる程度)は低い(30%とも50%とも言われている)ものの、各国の研究所が挙ってこの検査法の確立に注力しました。
 インド国内でもインド政府の保健・家族福祉省の管轄にあるインド医科学評議会(ICMR: Indian Council of Medical Research)もその傘下にあるプネー国立ウイルス研究所(NIVP: National Institute of Virology in Puneとデリーにある国立伝染病研究所((NICD: National Institute of Communicable Disease)がその輪の中に入り、ウイルスの遺伝子を増幅するために必要な「primer」と言う「撒餌さ」物質をドイツの研究所とアメリカの疾病予防センター(CDC)から入手しました。特にICMRの傘下にあるNIVPはPCRの設備も技術も相当レベルにあり、積極的に検査を引き受けました。この方法によって増幅した遺伝子の配列を既知のSARSウイルスの遺伝子配列と比較し、その一致率からSARSウイルスに感染していたか否かを決めたわけです。

3)WHOの定義に合致しないヒト(症状がないので厳密には患者とは呼べない)からも陽性反応:
熱や呼吸困難がないのにあるいはそれらはあっても、全く肺炎の所見がないヒト(患者さん)が、最近感染地から帰ってきたと言うことで、かなりの数の検体(血液、尿、気道分泌物)がNIVPやNICDに送られました(一説には70例以上)。そしてその中から4月30日現在、19名のヒトの検体からSARSウイルスの遺伝子配列と一致している遺伝子配列が確認されました。繰り返しますが、この19名は全て症状のないヒトあるいはあっても症状が軽度のヒトであって、先に述べたWHOの「可能性例」の定義には合致していない症例でした。つまり肺炎や呼吸窮迫症候群の症状はなかったのです。今回WHOは先に報告を受け登録をした1例も含めて再度、その臨床所見を検討した結果、登録を削除したものと推定されます。

4)どう解釈すればいいのか?:
PCR法の特異性は高いと先に言いました。すなわち検査の手技に間違い(例えば、容器の使いまわしとか溶液を吸いこむ道具であるピペットにウイルスが吸着しているようなこと)が無ければ、PCR法で遺伝子(SARSウイルスの場合はRNA)が見つかれば、それはDNA親子鑑定と同様かなりの確率でそこにウイルスが存在していたことの証しになります。つまりインドの研究機関の精度、あるいは検査法自体の科学的妥当性が保証されるのであれば少なくとも19例にSARSウイルスが感染していたことを示しています。しかし、この前提条件をまだまだ厳しく検証せねばなりません。私は決してインドの研究機関の精度のみに疑問を挟んでいるのではありません。むしろ科学的レベルはかなりのものだと思います。問題はPCR法(正確にはRT-PCR法)自体の精度、方法論がまだまだ世界の研究所でも検証段階にあると言うことです。遺伝子配列の比較にしてもその全て部分を比較するのか、SARSウイルスに特徴的(と推定される部分)だけを比較するのかで、話も違ってきます。
 そうした検証段階にある検査法による診断が臨床症状や疫学症状によるSARS患者の定義と混在すると、メートル法に尺貫法とヤード法が混在して数字だけを比べるような状態になって、WHOも患者の広がりの推移を一元的に評価することができなくなってしまいます。少なくともインドでは患者の数を多めに評価する法にバイアス(評価の傾き)があったと言うことは安心材料として評価できるかと思います。隠すよりはましですね。
 今回の決定はこのPCR法による検査の方法でWHOとインドの研究所で合意が得られなかったことも背景にあるはずです。いわゆるQuality Controlというものですね。
仮に、インドの検査法が正しく結果も正しかったと仮定すると、インドでは正常(あるいは軽症)の患者さんからもウイルスが見つかったことになります。この現象についてはSARSを起こすSARS-CoVだけではなく、他のコロナウイルスでも同様な現象があったことが、以前から報告されております。SARSウイルスが属するグループのコロナウイルスファミリーはほんのわずかの遺伝子の変異が病原性を弱めたり強めたりするのではないかという可能性も含めて今後科学的に検証されていくことかと思います。
 現時点で皆様にお伝えしたいのは、WHOの同じ物差しでインドのSARS累計患者数を数えると4月30日時点で0例であること。インドだけが別の物差しで19例として他の国例えば3000を超える中国と比較することは意味がないことの2点です。

5)普段から他の感染症予防の基本の徹底を:
 インドでは気温の上昇と共に下痢の患者さんが劇的に増えています。これは大抵は口から入るウイルスや細菌が原因となっています。インドに暮らす皆様は普段から手洗い、うがい、入浴、洗濯の励行を心がけねば健康には生活できません。SARSの問題を契機にして、もう一度我々の衛生観念を洗いなおしましょう。

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