H-Room aboutCP 蹴球CLUB GAME? 明日の運勢 RETURN

=SINCE2000=

同窓会がほこるライター・ハシモトヒロシ氏のコーナーです。今後もどんどん載せていただく予定なので、ご期待下さい。

=SINCE2000=

右と左

地球は丸いというのに、右と左は存在するのである。
しかし丸いと言うことは球体であって、右へずーっと歩いていくといつしか左に着いてしまうという事態が生じ、さらにそのまま進むと右が左を追い越したり、さらにはかっての左は右となり、右は左となってしまったりする。
このように右と左とは確固たるスタンスというものをもたない適当なものであり、いい加減であり、ウロウロヘラヘラしているものであり、ファナティックであり、アナーキーであり、常に揺れ動く女心のような存在である。
だが交通法規などでは車は左側通行などと定められているので、このままでは非常に危険である。
そこで危険を回避するためにひとつの基準を決めたい。
今後、箸を持つ手の方角が右であり、茶碗を持つ手の方角が左である、というのを基準としたらどうだろうか。
そうすると、右折、という時は箸を持つ手を基準にしてハンドルをきれば良いことになる。
これは便利だ。つねに軸というものが存在することになるからである。明快であり、正確でもある。
ただ、中には箸を持つ手と茶碗を持つ手が逆の人もいる。一般に「ヒダリキキ」と呼ばれている人々であり、そうするとこの人たちは箸と茶碗が逆になるので、当然だが右と左も通常の人とは逆になる。その場合、車の運転の際などしばしば死のドライブとなる可能性が高いが、いたしかたなかろう。
物事には基準というものが必要であり、そこに例外はないのだ。
最後に当然のことだが、箸と茶碗を使わない国には、右と左は存在しない。

2000.05.17


ヒロシの陶太 

僕もまあその一員ではあるのだが、世の中にはヒロシが実に多いのである。
ピョン吉を飼ってるのもヒロシだし、「ビーバップ ハイスクール」だって主 人公の片方はヒロシだし、ちびまる子ちゃんのオヤジもヒロシだし、サザンの原 由子を騙したのもヒロシである。
(たとえが古くて申し訳ないが)かようにヒロシは多数存在している。
会社にいたころだって大体フロアに2、3人はヒロシが必ず棲息していたし、漢字も同じという人も少なくなかった。道を歩いていて誰かが自分の名前を呼び、ハッと思うと五歳くらいの男の子が「はーい」なんて答えて脇をすり抜けていくなんて、もう日常茶飯事である。
同じヒロシという名前を持つ人ならわかってくれると思うのだが、このようなヒロシ的現象はほんとに多いのだ。
たとえば恐怖の大王が渋谷のハチ公前あたりにドーンと降りてきて、その足の下に踏みつぶされた人を調べてみれば、おそらくそのうち7人くらいは確実にヒロシであろう。
また東京ドームのトイレに「ヒロシ専用」の便器を設置してみたらわかると思うのだが、たぶんヒロシ待ちの列がえんえんと長く続くはずだ。
五分に一回くらいの割合で世のヒロシたちは二つに分裂して増殖してるのではないか、と思うほどに世界にヒロシは満ちあふれているのである。
これだけヒロシが存在していると、たまにアイデンティティの喪失というか、自己存在があやふやになるというか、自分という存在が他のヒロシと置き換え可能な稀薄な存在ではないかと感じてしまうほどだ。
だいたい僕の場合、両親がかなり安易にヒロシと名付けたという経 緯もあり(そのように母親は証言している)、そこらあたりでもヒロシ的普遍性はびっしりと僕という存在にまきついているのである。
他にこんな思いをしてる名前というのはあるのだろうか。どうなんだろう?
まあ、自分がたまたまヒロシの一員だったから感じただけであって、総務庁の統計をもとに書いてるわけじゃないからよくわからないのだが、あまりないのではないだろうか。
これがアメリカあたりだとジョンとかウィリアムとかが理解を示してくれそうだけど。
とはいえこのようなヒロシの増殖は昭和40年代をピークに、あとは下がる傾向にあるようだ。次第にユウキだのダイスケだのツバサだのにヒロシは淘汰されているのである。
ちょうどクロマニョン人に陶太されて、ネアンデルタール人が滅びていったように、ヒロシはその生息数を減少させているのだ。
ところで女の子の名前だと、僕の生涯ではユウコという名前を持つ知人が今のところ一番多いです。
まあ、これは僕の個人的な小さな世界の中での話であるし、何か楽しいことがあった、というわけでもないけど。
身の安全のためにも、そのへんは曖昧模糊とした空気に包んだままにしておこう、と思います。

2000.05.13


ふ 

唐突だが、ふとした疑問にとらわれてしまったのである。
この、ふとした、という言葉の「ふ」とはなんなのだろうか。
例えば、ふとした瞬間、という言葉がある。
または、ふと思った、という言葉もある。
「ふ」という瞬間や、「ふ」と思ったという表現であるが、これは実際問題としてはどのような状態なのだろう。
大体「ふ」という瞬間とは、時間にしてどれくらいの長さなのか。
瞬間というくらいだからそれは短い時間なのだろうが、ものの長い 短いというのは人それぞれちがうわけで、世の中にはえんえんと二時間くらいふとした瞬間を味わい続けている方もいるかもしれない。
また「ふ」と思った人も、本当に「ふ」と思ったわけではないのだろうが、 結局は「ふ」と思ってしまうわけである。
それに「ふ」とした、のだからこの場合の「ふ」は明らかに動詞である。
一体「ふ」とはどのような行為なのだ。
さらにはミステリーでも主人公が、ふとトリックを見破ってしまうし、 浮気が発覚する場合もたいていは奥さんが、ふと気づいてしまったり、する。
そうなると犯人は捕まってしまうし、夫婦は離婚騒動にまで発展してしまう。
おそらく戦争ですら、ふとしたきっかけ、で起こった場合があるのではないか。
このように考えると、「ふ」という言葉にはなにか一種の魔的なパワーがあるんじゃないか、と僕は考えてしまう。
デーモニッシュな言葉なのだ。
願わくば将来的に「ふとしたきっかけ」で人類が滅亡しないよう、祈るばかりである 。

2000.05.07


.com 

最近、ドットコムという言葉が世間をのしている。
なんだかよくわからないが猫も杓子も大前研一もドットコムである。
ドットコムにあらずんば人に非ず、という雰囲気すら醸成されている。
昔はこうではなかった。
ドットコムなどという言葉はたとえば、「電車がドッと混む」とか「夕方五時過ぎると銭湯がドッと混む」というくらいにしか使い道はなかったのだ。
まさか会社名に使われたり、株価の変動にまで影響を与えようとは、ドットコム自身だって思ってもみなかったに違いない。
これだから世の中というのはわからない。
まあそれはともかく、我が同窓会OB、OGにとって不幸だったのは、某スーパー○崎屋が「連日お客でドッと混む」ことがなかったことではないだろうか。

2000.05.06


楽しき試験監督 

先週から某大手外資系コンピュータ会社の新卒の入社試験の試験監督のバイトをしていた。
じつに楽しいバイトだった。学生の頃から、一度試験を監督する側というものを経験したいと思っていたのだ。カリカリという鉛筆の音の走る中をカツカツと靴音を響かせて場内を歩き回る、というのをやってみたかったのである。
試験は六日間にわたって行われ、なんと東京だけで延べ7000人近くが筆記試験を受けにきていた。採用予定は500人だというからもの凄い競争率である。やっぱり流行りの業界は人気が凄い。で、見事試験監督というものを僕は体験したのだが、おもしろかった。
やはり何千人も学生がいると、それなりにいろいろな人がいるものである。体内から妙な声が聞こえてくるからと途中で帰ってしまった人もいたし(オカルト系の人ですね)、絵に描いたように気分が悪くなった女学生の方もいて、本人は大変だったろうけど、僕としてはその介抱で試験監督冥利に尽きた体験をすごく堪能したりした。(そこにつけこんで変なことをしたり、住所と電話番号を控えたりはしていない) それとこれは採点の方だったが、課題の一つの作文がまた面白くて、時間がなくなったのか、「続く」と書いて終わらせてしまった猛者などもいた。うーむ、続きは面接の時に持ってくるつもりなのか。
また「わたしはマゾです」というじつに衝撃的なカミングアウトから出発する作文もあったし、「人を轢き殺してしまいました」という凄まじいものもあった。その他にもいろいろあったのだが、あまり書くとマズイので、残りは心の中にそっとしまっておく。
もしこの人たちを採用したらこの某外資系コンピュータの会社はすごく度量の広い会社である。
でも総体的に女の子の方が作文は上手くて面白い。自分の心理なんかも詳細に綴られていて、なかなか読ませてくれるのだが、男子、とくに理系の男子の作文はたいてい小学生の絵日記風でつまらない。
「○○をしたら、○○になった。そして○○した。そして○○なので、○○したら○○だった。だから○○だと思います」というように無味乾燥と言うか、「そして」を何度も多用するとか、随所に幼さの見えるものが多かった。まあ、あくまでも傾向であって、理系男子の中にも立派な文章を書いておられる人はいたんだけど。
で、バイトの総勢は二十三人で、その中で男は僕ともう一人の若いやつの二人だけで、あとは全員女性で、その多くは人妻だった。
べつにだからって何か楽しいことがあったわけではなく、ただ比率でいうとそうだった、というだけのことだけど。
とはいえ、やはり人生の面白さの幅は経験が多い方が広いようである。最終日に打ち上げをやったのだが、試験監督という仮面や受付という仮面を脱ぐと、皆とても面白い人たちで、バイトが終わってしまうのが残念でならなかった。
なにしろ中にはいわゆる今流行りのドメスティック・バイオレンスを体験されている方もいらっしゃったし、アルコール依存症寸前という方もいらっしゃった。前の仕事が忙しくて、四ヶ月間ほとんど家に 帰らなかったという人もいた。なんと着替えは一週間分を宅急便で自宅から送らせたり、送り返したりしていたそうである。会社にいるうちに季節が変わってしまうというからすごい話だ。僕にはとても耐えられないが、中山美保似の彼女はタバコをふかしながら平然と語るのであった。(ちなみにそこは小さな編集プロダクションだったらしい。今はフリーで記事を書いてるそうだ)
皆、そういう話をじつに明るく聞かせてくれるのだ。
うーむ、人生というものは人それぞれで、外見からでは絶対にその人のことなんてわからないのだ、と改めて考えさせられた。
とはいうものの、バイトを終えて僕がもっとも痛感したことは、人の就職の世話をしている場合じゃないよな、ということであった。  

2000.04.22


智恵子は東京には山がないといふ

というわけでさっそくだがサガノくんをはじめとする幾人かの方々から、
「三原山をはじめ東京にも山はある」という手厳しいご指摘をいただいてしまった。
「おそろしき哉、わらべ歌」についてのご指摘である。
たしかにそのとおりだ。
そのとおりなのだが、ここで認めてしまうと悔しいので認めないことにしたい。というよりあえて提案するが、いっそ山が見える所は東京ではない、と決めてしまうのはどうだろうか?そうしてくれると物事はわかりやすくなるし、すっきりする。東京には空がない、と謳う詩人もいるのだから、山くらいなくたってぜんぜんかまわない。そして例外として富士山のみは東京からでも見えて良い、ということにするのだ。富士山はやはり日本一の霊峰であり、別格ということで勘弁願いたいのである。で、高尾山のあたりや三原山は東京周辺ということで手を打ってもらう。ただその場合、問題となるのは上野の山や、王子の飛鳥山なんかをどうするか、ということだ。ポツンと東京の真ん中に山があるのはやはりまずい。すべてのコンセプトが崩れてしまうし、せっかくここまで話が進んだのに台無しになってしまう。うむ、どうだろう、そのあたりは他の自治体に売却してしまうというのはいかがだろうか。たとえば上野は北海道あたりとか、王子は九州あたりの自治体が買収するのである。倒産寸前の東京都も助かるし、地方自治体は都心に進出できる。住所は北海道なのに、最寄りの駅は湯島だったりするとかっこいいと思うのは僕だけだろうか。
 ということで、石原都知事にさっさく提案してみたいと思います。  

2000.04.22


おそろしか哉、わらべ歌

「大寒小寒山から小僧が飛んで来た」というわらべ歌がある。
おそろしい歌である。
この山から飛んでくる小僧とはいったい何者なのであろうか。
幸い東京には山はなく、小僧がやみくもに飛んでくるおそれはないが、それでも可能性は否定しきれない。
しかもおそろしいのは小僧の目的がはっきりせぬことである。
どのような目的で飛んでくるのか、よくわからないのだ。
手がかりは冒頭の「大寒小寒」であり、この言葉からしてどうやら寒い時期に関係しているらしいこと、また寒ければその寒さの度合いには関係なく飛んでくるらしいことはうかがえるのであるが、だからどうすれば良いのか、さっぱりわからないのだ。
しかもその小僧が、はたして小さな子供という意味なのか、あるいは出家したての若者であるのか、さらには小僧という文字が当て字であって、実際には子象であるかもしれないのか、それすらも容易には判断できない。
ただ子象が飛んで来る場合、それはダンボということになって著作権にうるさいディズニーから抗議が来るおそれもあり、いやこれは日本古来のわらべ歌であり、ダンボとは関係ないのである、それより「ライオンキング」こそ「ジャングル大帝」のパクリではないのか、「ターミネーター2」のT2000型アンドロイドは「寄生獣」のパ クリであろう、「マトリックス」は「攻殻起動隊」の・・・・・などという不毛の議論になりかねず、できれば小僧は小僧のままにしておきたいというのが日本映画界の本音であろう。
ともあれ山から飛んできた小僧は何者で、どのような姿形をしているのか、さらには彼の目的はなんなのか、なぜ山から飛んで来なくてはならないのか、海や川や羽田空港からではいけないのか、だいたいなぜ空を飛べるのか、それではまるでピーターパンではないか、まさかこのわらべ歌がピーターパンの元ネタだということはないであろうな、えらいことを思いついてしまったぞ、それとも小僧がチェーンソーやナイフを持っていたら三流のホラー映画ではないか、すると小僧はジェイソンやフレディの先祖ということになる、あな、おそろしや。
ああ、やはりこの歌はおそろしい歌だったのだ。
不吉で不可解で不可思議な歌だったのだ。わらべ歌とはそういうおそろしいものなのである。
ともあれ山から飛んで来た小僧を安易に家にいれてはいけない。
それはとてもとてもおそろしいことをもたらすに違いない存在なのだから。

※この文章を書いたのは昨年の初冬ですが、気がつくとすっかり春になってしまいました。
よく考えると「山から小僧が飛んできた」のフレーズの続きを知らないんだよなあ。
この続きを知ってる人がいたら教えてください。

2000.04.17


それでいいのかデビルマン

以前からずっと疑問に思っていたことがあった。
デビルマンのことである。
テレビアニメにもなった、不動明という主人公が 悪魔の肉体を得てデーモン族と戦うというマンガである。
その主題歌の中で「デビルアローは超音波〜」のようにデビルマンの必殺技を次々に挙げる部分があるのだが、その一節に「デビル イヤーは地獄耳」というのがあるのだ。
それを最近ふとしたきっかけで思い出してしまい、「地獄耳?これはどーいうことなのだろう」と僕は素朴な疑問にとらわれたのだった。
地獄耳、つまりとっても聴力が良くて、どんな音でも聞こえちゃうということなのだろうか、と僕は解釈したのだ。
うむ、なんとなくそれは悪魔らしいし、ヒーローっぽい。だが本当にそういう意味なのだろうか。
実際には僕は地獄耳という言葉の真の意味をよく知らないのである。
そこで調べた。ここで調べるところが僕の偉いところである。
辞書で調べるとこうだった。びっくりした。

【地獄耳】 大辞林第二版より
じごく-みみ ぢ― 【地獄耳】  

なんと、人の秘密をすばやく聞きつけること!これが主題歌にも挿入されちゃうデビルマンの超能力なのだ。
これではまるで、町内の噂ならなんでも知っているタバコ屋のバーサン と同じ能力ではないか!
ヒーローが人の秘密をすばやく聞きつけてどーするというのだ。
しかもイメージ的には壁に紙コップを当てて盗み聞きをしている姿が浮 かんできてしまった。最悪である。
こんなものでほとんにデーモンと戦えるのか、デビルマン?
まあ、それじゃ百歩譲って(1)ではなく、(2)の一度聞いたら決して忘れないこと、という意味だと解釈しよう。
だが、デビルマンがそんなに物覚えが良くてもしょーがないんじゃないだろうか、と思うのは僕だけか?
受験生じゃないんだからさ。だってこれは暗記力があるってことでしょ。
デーモンと孤独に戦うデビルマンが隠し芸で日本全国の駅名を間違えずに言えるっていうのもべつに悪くないかもしれないけど、なんか違うって気がする。
人の趣味にケチをつけるつもりは毛頭ないが、ヒーローというのはイメージも大切ではないだろうか。
うーむ、作詞をした人はどーいうつもりでこの一節を入れたのだろう。
このように疑問はさらに疑問を呼んでしまうのだった。

2000.04.17


巨 悪

おそるべき巨悪が存在する。
新聞やテレビでも報道できないほどの巨悪である。
第四の権力といわれているマスメディアでさえ報道できないのだから、凄まじい権力を持った巨悪である。
それも中南米とか中近東とか東欧とかアフリカとか中国とかのムチャクチャな場所ではない。
この日本の話だ。
しかも、戦前とか戦後のドサクサではなく、現代のこのニッポンの話なのである。
いかにおそろしい巨悪か、想像がつくであろう。
だがその巨悪の正体は分からないのである。彼らが行った行為だけはわかっている。
なんと、国会議員の秘書に対して交通違反をもみ消させたのである。
国会議員の秘書といえば、国会議員の次に偉い人々である。
その人々に交通違反というれっきとした犯罪をもみ消させるとは、
なんというおそるべき力を持った存在なのであろうか。
しかも警察を動かしている。つまり彼らは警察よりも力があるという事になるのだ。
それでいて新聞にもテレビにも名前は出ないのである。
寡聞にして私は彼らの名前が報道されたとは聞いていない。
超法規的存在といっても過言ではないだろう。
三権もマスコミも越えた存在なのである。
神のごとき力の持ち主だ。はたして彼らの正体は何者なのか。
意外にも、彼らはあなたのすぐ隣にいるかもしれない。

2000.04.13


   

 

しまうま通信  

 まずはじめにことわっておくと、このコーナーはいわゆる奇蹄目ウマ科ウマ属に属する「しまうま」という生物に関する情報通信ではなくて、しまうま愛好者の、しまうま愛好者による、しまうま愛好者のためのものでもまったくなく、しまうまの生態に関する特殊で貴重な秘密が掲載されているわけでもない。
 ただの文章である。
 それも内容的にはかなりいいかげんで、おおざっぱで、人生においてどうでもいいようなことに関するものである。
だから「最先端」とか「必要 不可欠」なんてものではまったくないし、当然だけどあまり物事の役には立たない。
 なんでこんなことを書くかというとタイトルだけを見て、しまうまにある独特な愛着を持つ人や、職業上しまうまに関する特殊な知識を必要としている人が「なんだ、全然しまうまについてなんか書いてないじゃないか」なんて憤慨されてしまうといけないからだ。
 怒られるのは苦手だし、こわい。
 だったらこんなタイトルをやめればいいのだが、これが気に入ってしまったのだから仕方ない。
このあたり僕はガンコでワガママなので、あきらめてもらいたい。
今後もきっと、そういうことならこうした方がいいのに、というようなことがいっぱい出てくると思うけど、それもたぶんそのようにはしないので、早めにあきらめてもらったほうがいいです。
 というわけで今後、これまではごく私的に何人かの方々にメールで出していた文章を管理人さんの好意で掲載させてもらうことになった。
 雨の休日にやることがなかったら読む、みたいな感覚で読んでもらいたいなと思います。
 でわでわ、皆さんごきげんよう。

  同窓会がほこるライター・ハシモトヒロシ氏のコーナーです。今後もどんどん載せていただく予定なので、ご期待下さい。