1. 2015年3月28日 記
通説では 古墳出現期の神門5号墳を、 市原の「首長」の「前方後円墳」と考えたため、
木更津の首長の「前方後方墳」のクニ、印旛沼・手賀沼の首長の「前方後方墳」のクニとは
対立関係にあった と考えている人が多いようだ。
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「発掘いちはらの遺跡」 4号 から
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邪馬台国=前方後円墳のクニ、
狗奴国=前方後方墳のクニ、 という対立関係の構図を描いてる人もいるようだが、
神門古墳は、在地の首長墓でなく、大和から天孫降臨した祭祀者の墓、と認めるとその構図は変わる。
大和・纒向から派遣された祭祀者(天つ神)を葬った 神門5号墳 「前方後円墳」 が、市原の地に築造されたのは3C前半。
在地の首長(国つ神)のクニは出雲系の影響が見られ、(纒向での前方後円墳の築造技術を応用しつつ、)前方後円墳は遠慮して出雲系
「前方後方墳」 を築造したと見られる。
・木更津の首長は「高部30号墳」(3C後半) を築造した。
・手賀沼周辺の首長は、「北の作2号墳」(3C後半) を築造した。
・印旛沼周辺の首長は、「飯郷作1号墳」(3C後半」 を築造した。
房総半島で首長墓が 「前方後円墳」 に切り替わるのは、 AD310年〜311年のヤマトタケルの東征以降になる。
ヤマトタケルが、(在地の首長たちを取り込み)、首長もヤマトと同じ「前方後円墳」を築造し、祭祀出来るようにした、と推定する。
以降、首長墓は前方後円墳になり、その格下の実力者の墓が前方後方墳へと 変化した。
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「千葉県の歴史」
2000年 山川出版社
P24〜25
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※ 小糸川流域の首長墓だけが4Cに前方後方墳なのは、ヤマトタケルが征伐したこの地方の豪族・阿久留王の影響と考えられる。
房総半島の古墳時代 初期に、前方後円墳のクニ と 前方後方墳のクニ が対立していた、という構図は無く、
古墳に祀られた首長のランクの違いが、神門古墳の築造によって顕在化した、という仮説。