なかなか広まらなかった水田稲作




炭素14年代測定の結果、水田稲作は、従来説より500年早い 紀元前1000年に遡ることが判明した。

『水田稲作が伝わると、列島各地の縄文人はすぐに水田稲作を受け入れ、農耕社会がまたたくまに成立した。』 という考え方は誤りであった。

水田稲作を受け入れたのは 九州北部から始まって東海地方までで(それでも500年かかっている。)、そこでストップし、それ以遠の東日本の縄文人はなかなか受け入れなかった。




以下、『<新>弥生時代 500年早かった水田稲作』 藤尾慎一郎 2011年10月1日 吉川弘文堂 を基に 関心のある点をピックアップした。









○紀元前10世紀後半に、九州北部で始まった水田稲作は、500年ほどかかって 紀元前5世紀に 伊勢湾沿岸に広まった。

(始まり)
・北九州玄界灘の平野部には、河川の中・上流域には畑作を行う縄文人が暮らしており、下流の低湿地は無人であった。
 その地に突如、紀元前1000年頃に、水田稲作を行う集団が出現した。
 その集団は、縄文人のみでなく、(半島南部からの)渡来人のみでなく、縄文人のなかに渡来人が混ざった集団であった。

・河川の下流域に始まった水田稲作は、中・上流域の縄文人集落がそれを受け入れるまでに、300年ほどかかっている。
 それまでは、水田稲作を行う集落、行わない集落が 長い間、併存していた。


(広がり)
 ・紀元前8世紀〜前7世紀  九州南部、九州東部、西部瀬戸内 で始まる。  200年以上かかって九州島を出た。
 ・紀元前7世紀〜前6世紀  近畿の神戸市付近に 到達。
 ・紀元前6世紀       奈良盆地で始まる。
 ・紀元前6世紀〜前5世紀後半 伊勢湾沿岸地域で始まる。(遠賀川土器分布の東限)   


○紀元前6世紀に、伊勢湾沿岸・金沢付近に広まった水田稲作は、太平洋側へは広まらず、日本海側を一気に東北北部に北上した。

 ・紀元前4世紀初頭には、青森県弘前地域に
 ・紀元前4世紀には、仙台平野、福島県いわき地域へ。  (九州北部で始まって600年かかって東北に到達)
 (東北北部の縄文人は、紀元前400年に水田稲作を取り入れたが、400年続けたのちに放棄し、元の狩猟採集に戻った。)


○紀元前6世紀に、伊勢湾沿岸に広まった水田稲作は、太平洋側へは、紀元前2世紀になって やっと関東南部に到達する。 (九州北部で始まって800年)

 ・水田稲作が、関東地方に広まり、利根川を越えて北上 するのはそれ以降となる。


○沖縄では10世紀、北海道では19世紀になって水田稲作が行われる。



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青銅器、鉄器について


・青銅器は、水田稲作が始まってから約200年後に出現する。

・鉄器は、水田稲作が始まってから約600年後に出現する。
 最初に出現した鉄器は、燕(中国東北部)の鉄斧の破片を、細工加工した小鉄器だった。
 (1200年続いた弥生文化の前半分は石器だけの世界だった。)

・1世紀に、遺跡から鉄器が出土するのは中四国以西、近畿の日本海側沿岸だけ。
・近畿中央部での鉄器の出土は、3世紀。「東夷伝」に書かれた弁辰の鉄





<雑 感>

@ 渡来人

半島南部から水田稲作をもたらした渡来人は、倭人系であったのか、中国系・半島系であったのか? は不明。
少数の集団で渡ってきているようだが、水田稲作民は航海の民ではない。 半島交易に従事していた縄文人が 請け負って連れてきたと考えるべき。
請負人は、北九州に渡ってきてからの、稲作・生活場所、食料、現地人への紹介 などの 当面の生活の面倒も見ていたのだろう。

渡来人は、倭人系でなければ言葉が通じない。 本人、子供を経て、孫の世代には 倭人の言葉を自由に話せ、倭人社会に同化していったのであろう。


A 縄文祭祀の影響力

縄文人が、水田稲作を受け入れるまでに時間がかかったのは、1万年以上におよぶ縄文祭祀の影響が大きいと考える。
縄文人は、第2の道具といわれる 土偶・石棒などを発達させ、土器も亀ヶ岡式のような高度なものを作りあげるなど、半島・大陸に無い独特の祭祀器具の文化を発達させていた。

九州を出た水田稲作が西日本でいったん止まったのは、東日本の方が縄文祭祀が盛んで、新たな文化の受容を妨げたためと思われr。
東の祭祀の影響は、西日本にも強く及び、半島経由で伝えられた青銅器も、本来の利用形態から、祭祀用の銅矛、鏡、銅鐸と、縄文の影響により列島特有の受容となった。


B 縄文人の敬った飛騨王朝

縄文時代にはクニは無かったが、飛騨地方に 縄文人が敬った精神的な権威者が居た、という有力な仮説がある。 (古代史の復元)
伊勢湾岸と北陸を結ぶ線から、水田稲作がなかなか東に伝わらなかったのは 飛騨王家が弥生文化の侵入を許さなかったから。

縄文は女系社会で、男性は入り婿として入り込む風習だった。
大和王朝は、飛騨の縄文王朝の権威を引き継ぐことで、平和的に日本を統一した。

弥生末期、ニギハヤヒも神武天皇も、飛騨王家の婿として受け入れられ、権威を引き継ぎ、東日本を開拓・統治した。



            (2017.08.08)