神倉神社「お灯祭」と 梅原猛「火の神の 第一息子の土器、第二息子の金属器」
 

  2025年 3月 3日    (この記事は、Facebook「古代史研究会」2025年2月15日に投稿したものです。)



2025年2月6日夜、熊野新宮「神倉神社」の火まつり「お灯祭」がありました。
1500人もの信者たちが松明を片手に山を駆け下る凄い行事です。

【動画】厳寒貫く 炎の竜 和歌山県新宮で御燈祭り
 https://www.youtube.com/watch?v=cd-I1jE-8c4&t=18s


異色の哲学者 梅原猛は、火祭りに参加して、「日本には火の祭りが各地にあるが、特に感動を覚えたのは和歌山県新宮市の火の祭り、お灯祭である。
それは日本における火祭りの白眉であるばかりでなく、すべての日本の祭りの中でも、私がもっとも愛する祭りである。」と記しています。

お灯祭は、男性なら誰でもが参加できますが、次の衣装ー白襦袢、白股引、白脚絆に、白い頭巾を着なければなりません。
そして、腹には、太い荒縄を巻き、手には白木の松明を持てば、準備OKです。 新宮の町やネットで、これらは購入できるようです。





20万年前にアフリカ・ザンベジ川南部のボツワナで誕生した現生人類は、6万年前にアフリカを出て、4万年前に日本列島に到着しました。
私の近所の高井戸東遺跡では、 3万2千年前の集落遺跡の燃えて炭化した木片が確認されています。
旧石器時代の人類は火を使用していました。
その後2万年以上が経過し、1万6千年前に、縄文人がその火を使って初めて土器を発明しました。
人類の最初の画期です。


熊野新宮の火祭りに深い感動を覚えた梅原猛は、火について次のような内容の考察(概要に纏めた)をしています。(「日本冒険(1986年)」)

火の発明が、人類史で画期的な意味をもっていたことは、ギリシャ神話のプロメテウスの話で十二分に示されている。
火を発明した人類は、その火を使って様々なものを生み出した。一つは土器であり、もう一つは精錬の技術による金属器である。
土器、金属器の発明は人類の生活を変えた。

金属器文明は人類史を大きく転換させたので、それに立ったヨーロッパ文明は、土器誕生の意味を認めず、世界史年表には土器時代というものが記されない。
石器時代からすぐに金属器時代に移る。
しかし、日本は金属器文明から見れば後進国かもしれないが、土器という点から見れば、たいへんな先進国だった。
土器は、火の神カグツチの生んだ第一の優れた息子である。そして次に火の神は第二の息子 金属器を生む。
(梅原猛は火の神の第一の息子を土器、第二の息子を金属器として考察しています)


土器の発明は直接、生産の発達に繋がらないが、生活レベルの向上という点で人類史に画期的変化をもたらした
それまで人類は、動植物を生のまま食べるか、火に直接、焙って食べるよりしかたなかったが、土器の発明により、煮る、炊く、蒸す などの様々な料理が可能になり
料理の幅はぐんと広がり、人類の食生活は飛躍的に豊かになった。土器は生産や戦闘には結びつかない、平和的な火の神の息子である。

一方、金属器の発明により農業は飛躍的に進み、そして戦闘は著しく変化し、富は集中し、その富の上に立って軍事力を背景にした巨大な国家が生まれ、
その巨大な国家を統治する世界宗教が生まれ、文字が生まれ、書物が書かれ、いわゆる大文明の時代がきた。
そして、「生産」への信仰、「武力」への信仰が生まれてくる。 特に鉄の時代で、人類史は生産中心の時代、あるいは武力万能の時代へと移っていった。

幸か不幸か、金属器文明の到来の遅れた日本では、火の神の第一の息子の土器が長い間、平和の時代を支えていた。
実に一万年もの長い時間である。生産よりも消費、戦争よりも平和共存の原理がそこにあった。
そこには、火の神の第二の金属器がもたらしたような生産方法における画期的な進歩はない。しかしそこで一種独特な「文化」が育った。

大陸に発生した大文明とちがった文化が、精神的にはかなり高い平和で独特の構造をもつ文化が、ここに育った。
日本の火の神は、金属器の神よりはむしろ土器の神とより深い関係にあったということである。
一万年以上の縄文文化を切り口に日本文化を考えるとき、私はまず、火の神と土器の神の関係を十二分に考察する必要があると思う。







縄文社会が何故 1万年もの長く続いたか、の仮説 (古代史研究会 2024年12月16日 投稿) ・


縄文社会は1万5千年前から始まり、日本の歴史の大部分を占めています。
ところで、今迄不明だった「先史時代の様子」は、古代DNA分析によって明らかにされつつあり、これは凄いことです。

デイビッド・ライクの「交雑する人類」P167 に次の文章があります。
『古代DNAから浮かび上がってくるのは、現存する北ヨーロッパ人すべての主な祖先が、わずか5000年前にはまだやって来ていなかったという驚くべき事実だ。』
ヨーロッパでは、集団の置換と大規模な混じり合いが幾度も起こって、住んでいた民族が入れ替わっています。
最後はステップの遊牧民が大移住し、中央ヨーロッパの農耕民に取って代わりました。


日本列島では、渡来人が半島から稲作を携えて大挙押し寄せ、先住縄文人を駆逐し、渡来弥生人が列島の主人公になった、という民族置換説が一時期ありました。
この説は、古代DNA分析により、ヨーロッパとは真逆に、列島では民族の入れ替わりはなく、縄文社会から延々と1万5千年もの長く続いている、に落ち着きました。
日本語の起源も、渡来系では無く 列島で発生した縄文語、ということが小泉保氏により明らかになっています。
縄文人が、「他民族による征服、大規模交雑、民族入れ替わり」 が無く、ゆるやかに 避難民を受入れて同化させ、現在に至っていることは、世界史上でも稀有な事です。
侵略を防いだ島国の立地によることが大きいのでしょう。

ヨーロッパの民族の入れ替わりの最後は5000年前で、縄文時代の信濃川流域で火焔型土器が栄えた時期になります。
この縄文社会が1万年もの間継続した謎は、多くの研究者の関心を引いています。

小林達夫氏は 『ひとつの枠組みの時代が1万年以上続くのは、人類史上ほとんど類をみない。縄文時代はとても安定した時代だったと思われる。』と語っています。

■日本の先史時代を研究している英国のサイモン・ケイナーは講演のなかで、 『私が驚いたのは、先史時代に1万年の長きに渡って、
 自然と共生した縄文文化が継続したことで、普通、文化は2〜3千年で変容するものです』 と語りました。
 そして彼は、@人類史上最古の縄文の土器、A人類史上最古の定住生活である縄文の集落(のデザイン)に魅力を感じていました。
 これは、世界一豊かな自然と共存し、縄文人どうしが平和に交流して生活していて、変容する必要が無かったと考えられます。
 私はこれに加えて、縄文人はイヌの祖先から犬を誕生させたことで、人類史に輝かしい貢献をなした、と考えています。

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何故長く続いたのか? 私の仮説はこうです。
 
 縄文社会が1万年継続したことを解く概念は、ストレス学で言う「ホメオスタシス作用」と考えています。
 それは身体の恒常性維持の概念で、体内の機能が働きすぎることを制御したり、機能が低下した時には改善させたりするなど、
 ヒトの身体がストレスに対して、常に一定の生理作用の中で動くようにバランスをとる作用です。
 つまり The Power of Keeping Normal です。

 これを集団に適用すると、変容を避け、社会を一定に維持する力で、それがノーマルな社会の状態なのです。
 民族間の戦争などの異常事態が生じれば変容するが、それがない縄文社会は 安定した正常なホメオスタシス作用で継続したのです。
 変容しなかったのは悪い事では無く、「生命・種の生存原理」で、エデンの園だったからでしょう。
 他民族の襲来などで生存が脅かされ、戦争技術が進歩した集団は、どんどん変容していった、ということになります。
 これは別に進歩ではないです。
 


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縄文社会が、大陸や半島や沿海州などの先史時代社会と異なるのは、第2の道具の使用でしょう。

第1の道具は、腹を満たすためのもの。弓、矢、釣り針などなどで、世界中 何処も同じで開発されています。
第2の道具は、心を満たすためのもの、と考えられており、土偶や、土器の突起や装飾など、祈りとか情緒が働く道具で、
 これは大陸や、半島や 沿海州には無いものです。縄文社会は、1万年の長きにわたって、第2の道具の精神文化を発達させたのでしょう。

我々が無意識に前提としている、合理性、機能性、経済性・・これらは水田稲作導入で自然の開発を始めて「変質した」社会の世界観で、
縄文人はこれとは異質の、自然と調和する感性、価値観を有していました。
縄文人は、技術や生産力、社会的規範、軍事力を発展拡大させることには(社会的な)関心が集まらなかったようです。
この縄文人も、半島からの稲作導入の変化に対応するため、じょじょに変質していきます。が、自然に対する感性は現在まで引き継がれています。




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