高麗(こま)の若光の移動について(メモ)




716年5月 甲斐,伊豆,相模,上総,下総,常陸,下野の 高麗人 1,799人を 武蔵国に遷し 高麗郡を置く 。 という記録。

高麗の若光ら一行は、大磯から出発して道なき原野を、北極星を目印に北上し(高麗神社の地に)到達した、という伝承。

 この2つの 建郡にかかわる事柄について考えてみた。





(1)武蔵国の状況

 @武蔵国には、多摩川下流域の豪族(多摩川台古墳群を築造)と、北武蔵の豪族(行田のさきたま古墳群を築造)の勢力があった。
   534年の武蔵国造の争いー  北武蔵:笠原直使主(おみ)VS 多摩川下流:笠原直小杵(おき)+上毛野君小熊(太田エリア)ー の結果、
   武蔵の勢力の中心は 多摩川下流から北武蔵に移った。

 A7世紀中頃、北武蔵から複数の首長が南武蔵へ移住し、多摩川上流域に政治センターが形成された。
   それまで大きな古墳が無かった多摩川上流域に、7世紀前半〜末 に5基の首長墓が造られる。
   稲荷塚古墳(八角形墳:7世紀前半)、熊野神社古墳(上円下方墳:7世紀中葉以降)などの新しい墳墓形式

 B政治センター設置の契機は2つ。
   ・広域交通網の整備=東山道武蔵路+多摩川水運の連携 (幅12m程の東山道武蔵路 工事の差配が、新首長らの重要任務)
   ・手工業生産を中核とした多摩丘陵の本格的開発。
  相模首長層との交渉をはじめ、広域の利害調整が必要な為、在地首長の自律的な動きだけでは考えにくく、中央政権の意志が働いた。

  ※ABは広瀬和雄「6・7世紀の多摩川流域 ー武蔵地域の政治センターの形成ー 」 2012年1月9日講演/パルテノン多摩 による。

 C7C末〜8C初 「武蔵国」南端に武蔵国府が設置される。(通常、エリア中央に設置されるが、ここは相模国と隣接する場所)

 D708年に武蔵国(秩父)で銅が発見される。(国内初で 和銅元年と改元される)


(2)中央の状況

  667年 近江・大津宮に遷都
  694年 藤原京に遷都
  703年 高句麗王族・玄武若光が高麗王(こまのこきし)の姓を賜る

 @高句麗遺民は、朝廷の配下に置かれ、大津宮・藤原京の建設に従事し、多大の貢献をなした。
  玄武若光が高麗王の姓を賜ったのは その功績によると推察する。

 A藤原京の建設後、高句麗人は東国の開拓に使役させられた。
  相模国では、国府の管理下で 大磯に多数の高句麗人が移された。
  (大磯の高麗山 高来神社の地は、国府(平塚市)から直線距離で4キロほどで、直ぐの呼び出しにも応じられる地)


(3)東国の開拓に

 @東国各地に分散されていた高句麗人をまとめて、未開の地を開拓する方針(新郡建設)が決められた。





A選ばれた入植地は、
 北武蔵の豪族の地と 南武蔵の豪族の地 の中間地点で、両者の影響力の薄い未開拓地。 
  
 背後は銅が産出された秩父であり、それらを考慮して中央政権がこの地を適地と定めた。


B716年 大磯から出発した一行は、相模国府、武蔵国府の役人の管理の下、
 完成していた東山道武蔵路を北上し、その後西に折れて目的地に進んだ。

 新郡建設は国の事業で、移動中の食料などは国府から支給されたと考えられる。
 若光は高麗王の姓を賜っているので、丁重に扱われたであろう。




・左図の高麗神社のあたりが、高麗の若光の居住地


※東山道武蔵路は、南北の直線で便宜的に描いたが、
 実際は中途の川越付近から北へは 緩やかに北西に向かっている。




目的地 高麗神社の地は、出発地 大磯(高麗山)高来神社からは 北極星が輝く真北にあたる。
そこに東山道武蔵路を北上した記憶が合わさって、北極星を目印に進んだ という伝承が生まれたのであろう。





高麗神社

高麗川の台地上に位置しており、若光が亡くなり、その霊を祀ったのが創建の由来。


 中央の左から右へ高麗川が流れている。
 その上のこんもりした台地上に神社がある

 高麗川にかかる出世橋を渡り

 台地に上がって 一の鳥居に到着

   二の鳥居    社殿 入り口       社 殿




※2016年に、高麗郡建郡1300年の記念式典が行われた。

                     2018年9月14日     宇田川東






【 追 記 】  2018.9.29
高麗の若光について、二つのメモを書き纏めてきたが まだ腑に落ちないことがあった。
それは、若光の入植地と その背後にある意味だった。 短いメモを書き、パズルの最後のピースを埋めた。
→ 高麗の若光による 高麗郡 建郡の意味について



  関連: 高麗の若光について


私の歴史年表 に戻る