2014年3月1日(土)
  
  追加:2019年04月12日(金) 
高峯の山桜


2014年03月01日(土)


 あいにくの雨の中、
桜川 磯部稲村神社」 に行った。
 
 筑波山の北にある この神社は、東国の桜の名所として有名であり、多くの歌人に歌われており、謡曲「桜川」の舞台となった地で、桜川が流れている。
 季節は桜にはまだ遠かった。


 
   この神社を気に留めたのは、「
要石」がある、ということだった。
  遠く離れた 鹿島神宮の「要石」 と協力して、地中の巨大ナマズを押さえ込んでいる、と。

  桜川磯部稲村神社は、鹿島神宮の戌亥(いぬい・西北)を護る鎮守の杜とされ、鹿島神宮とともに常陸の国を守護していた。
  鹿島神宮の要石が大鯰の頭を押さえ、磯部神社の要石が尾を押さえている、と。
 
  これで興味を持ち、更に、謡曲の舞台となるほどに、桜で有名だった、と知った。

 



  この日訪れた三箇所 (@
桜川磯部稲村神社 A稲田 西念寺 B涸沼うなぎや) の位置図。
  






   
 



    国道50号から狭い道に入り、農村風景を眺めながら丘陵地帯に入っていった。
    磯部桜川公園という、桜の名所の公園を過ぎると、行く手に 桜川磯部稲村神社が見えた。

 

入り口の石段から境内を


境内から右手へ、小道を下っていくと、中世の館の
土塁・空堀が残っている。














    
要石 は、本殿の左奥にあった。




要石
(かなめいし)


磯部神社の要石は凸型で、大鯰の尾を押さえている、と云われている。

鹿島神宮の要石は凹型で、大鯰の頭を押さえている。




 




この大ナマズの大きさは目の下 63キロ (両神社間)で、
霞ケ浦・北浦と筑波山山系を跨いだ巨大さになっている。








 桜川は、古来より 「西の吉野、東の桜川」 と並び称される 桜の名所、とのこと。
 紀貫之が歌に詠み、世阿弥が謡曲をつくり、江戸時代には歴代将軍により隅田川堤をはじめ江戸各所に移植された、と。


 神社の裏手方向にあたる 高峯の山桜 の写真が印象に残った。



 桜川磯部稲村神社は、謡曲「桜川」 の舞台になった場所である。

 謡をやっている友人に、この神社の訪問を話したら、
  「謡を始めた頃、桜川の 『網之段』 を、意味が分からないまま、先生の謡に “鸚鵡返し” していました。
 今回 「謡曲大観」 を読んでみたら、とても美しい詞章でした。

 と返事が来た。


 そこで、桜川 『網之段』 を検索したら、
 桜川に散り流れる花を、失ったわが子 「桜子(さくらご)」 とダブらせて、 一心不乱に網で花を掬う母親の段が 『網之段』 だった。
 花筏 は知られているが、「すくい網」は知らなかったし、  こういう所作を考えた世阿弥は凄いと感じた。



そういえば彼女から

能「桜川」は、今月3月23日に喜多能楽堂で人間国宝の友枝昭世さんが舞うので、
観に行く予定にしています。 
とのことだった。





 ← このポスターは別の公演のだが、手にしているのが、「すくい網








 山桜には”樺桜”という時期がある。
 桜川・網之段の一節に 「霞の間には樺桜、雲と見しは、み吉野の..」 という一節がある。
 これは、桜の花が散ると、樺色の葉が残り、山肌の所々が樺色になる情景だそうだ。




 ☆☆☆ 謡曲 桜川 参考メモ ☆☆☆

 ☆ 謡曲 桜川 世阿弥作  (小さな資料室 資料56: 本文末の注は貴重)

 ☆ 能の演目 桜川について  (the能ドットコム/演目事典)

 ☆ 桜川磯部稲村神社 の宮司の説明 (さくらがわーるどゼミナール/桜川的世界)

 ☆☆ 桜川市観光協会のホームページ 






 《 追 記 》   2019年4月12日(金)


開花した山桜を見に、5年ぶりに桜川の地を再訪した。
最初に、高峯の山桜を見るため、山里の高台にある眺望ポイントへ。


(平沢公民館の先の)高峰の山容が 眼前に横たわる場所に、案内の石碑が建っていた。
山桜絶景」と彫られた上に、額縁のように石が切り抜かれ、そこからの一望が高峯の正面からの眺になる。

     額縁にカメラを置いて撮影


高峯の山筋の襞々には 山桜のグラデーションが鮮やかだった。
この日はまだ満開には早く、山頂は桜色には染まっていなかった。

額縁にカメラを置いて、ズームで撮影



高峯の山桜の鑑賞には、麓とは別に、山頂と途中の第1、第2展望台とがある。
この桜の時期は、山頂への林道は車両通行止めで 徒歩でしか向かえない。


通行止め下の(保ちゃん広場P まで)上がって行った。

そこから林道を少し上がった場所にベンチが置かれた休憩所があり、

ここで峯の山桜を楽しみ、引き返した。






(小型のタカ)サシバがもう渡ってきており、周囲を飛翔していた。







一方、桜川磯部稲村神社は 山桜が満開だった。
謡曲「桜川」で、”なほ青柳の糸桜” と謡われた「糸桜」は満開を過ぎていた。
境内は参詣者で賑わっており、テント張りの仮設休憩所もあり、氏子さんが 磯部餅や桜飴、筍・タラノメ・胡瓜、甘酒などを販売していた。



今回、謡をやってる友人を誘ったが、彼女が神社とご縁(※1)があり、
その関係で 宮司の奥様から「桜川の桜米」をお下がりに 戴いてしまった。








※1 
謡曲「桜川」は、中村芝翫により歌舞伎に 舞踊「さくら川」として取り入れられた。
平成3年、新橋演舞場6月公演前の5月に、(祖父と孫の)中村芝翫、中村七之助、
松竹関係者が 桜川磯部稲村神社にお参りし、宮司さん達と一緒に撮った写真 を持参した。



☆☆☆ 歌舞伎 さくら川 メモ ☆☆☆

謡曲「桜川」は、歌舞伎では舞踊 「さくら川」として、中村芝翫(7代目)により演じられた。

@初演 平成2年(1990年) 舞踊会「羽衣会」(中村芝翫主催)。振り付け:藤間藤子
A平成3年6月 新橋演舞場。
 染井の前 = 中村芝翫(7代目:祖父)
 磯部寺住職筑慶 = 中村橋之助(3代目)
 小坊主柳珍 = 中村勘太郎(2代目)
 童女さくら = 中村七之助(2代目:孫)
備考: 萩原雪夫作 :1991年に舞踊「さくら川」で大谷竹次郎賞を受賞
   新橋演舞場 新装開場十周年記念

Bその後、1993年1月 歌舞伎座、 2002年1月 歌舞伎座で 中村芝翫(7代目)により(孫と)演じられた。
 童女さくら役と 染井の前役が 中村家で揃わないと演じることが出来ないので なかなか機会がない。


☆☆ 舞踊「さくら川」公演記録 → 歌舞伎公演データベース 





帰途、桜川磯部稲村神社から、その参道筋にあたる「磯部桜川公園」へ立ち寄り、白山桜を中心とした山桜を堪能した。

広い園内は静かで、山桜の香りが漂っていた。


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遅いランチは、筑波山西麓・真壁の人里離れた「鴨亭」で。


昔は合鴨の養鶏場があり騒々しかったが、それは移り、
店も今は支店・築地「鴨亭」がメインになっている。


この店は、つくば万博があった年に初めて入り、今回は3回目になる。


常陸秋そばの「鴨せいろそば」を堪能した。とても美味かった。
せっかく鴨料理専門店に来たので「鴨のコンフィ」も注文し シェアしたw



         ー 追記 終了 −







 次に、
 親鸞聖人が約20年近く住まわれ、教行信証を完成させた 稲田の草庵跡 に行った。
 今は 「稲田禅居西念寺(稲田御坊)」 と呼ばれている。


 親鸞聖人は、京都の本願寺の開祖で門徒は近畿・北陸に多いので 関東地方には縁が薄い人物と思っていた。
 ところが、笠間近くの稲田に20年近く住まわれていたと知り、その草庵跡に行ってみたい、と思っていた。


 左手の小高い丘が 稲田の草庵があったところ。

 右手は田んぼになっている。 風雪谷?

 草庵前の三反五畝の田を庵田米と称して、親鸞聖人が食べていた、と。


     このあたりの風景を 吉川英治は 次のように書いている。



 西念寺の山門
  


  
   本堂を望む

         本堂の石段から、正面の山門と境内を。








  ランチは、久しぶりに涸沼(ひぬま)湖畔の 「うなぎや」で。


建物は再建されてビルから平屋になり、
涸沼の景観にマッチする料理屋になっていた。。


  



  今の涸沼の旬は、寒シジミ に シラウオ

      まず 「しじみ ぬた和え」。
      トッピングにシラウオ3匹が。

 次に、涸沼の 「シラウオの天麩羅」を。
 左側の半分が シラウオと大葉の天麩羅 で実に美味かった。



名物の 「しじみ汁」。
青紫色をした汁に心が吸い込まれそうだ。
汁の下には寒シジミが層をなしているのだ。
メインは、店名が「うなぎや」なので 「うな重」を。
  ふっふっふ



  産地で味わう 贅沢な食事だった。




  「うなぎや」 での食後、湖畔沿いに広浦まで進み、通ってきた漁村を振り返る。

  


 



   帰りは、対岸の網掛公園にまわった。

   ここから見る涸沼の景観も味があった。  シジミ採りの小さな港もあった。


  


 

 


2014年4月23日了

  宇田川 東