思いがけない出会い

 このところ田舎へいくことが多い。

地方の空港から時間をかけてかなりの山奥の集落へ行くこともある。
そこで昔ながらの美しい山里景観にふれる機会も多い。

しかし、目的地ではなく、全く予定していなかった箇所へ廻って感動することもある。
また、気にかけていた場所を思いがけずに訪れることが出来た。という幸せな場合もある。

今回がそうであった。




  大分県内で、大分市〜安心院町〜院内町〜宇佐市を廻わり、仕事を終えての帰途のことであった。
豊後高田市から国東半島を横断して大分空港へ向かっていた....

車を運転していた若い先生が、「途中に富貴寺という中世のなかなかいいお堂があるので寄りましょうか、案内します。」 といってくれた。

このままだと飛行機の時間にはまだかなり間があるので、立ち寄ることにした。

はじめての国東半島である。
起伏に富んだ丘陵地帯を進み、山際の狭い田んぼに沿って進んで行く。
山間の田園地帯には人家は少ない。

 

そして着いた(ふき)という名の小さな集落に 富貴寺(ふきじ)はあった。
寺の前だけが開けており、駐車場とみやげもの屋があり、道路から山門へ続く小さな坂道がある。

二月下旬のことで梅が咲いていた。


 

狭い階段を登っていく。



 

 

優美な傾斜の屋根を持った白木造りのお堂。周囲の景観にぴったしで鄙びていておりとても印象に残った。
養老2年(
718)開基といわれている。

中尊寺の金色堂、平等院の鳳凰堂と並んで、この大堂は日本三大阿弥陀堂といわれている。
高名な他の二つのお堂と並び賞されているとは知らなかった。

堂内も素朴で、内陣には阿弥陀如来像が安置されている。

 



 この近くに”田染荘小崎”があるはずと思い、帰りに山門脇の受付のおばさんに聞くと、
手作りの地図をくれ、小崎までの行き方を説明してくれた。意外に近くであった。



田染荘(たしぶのしょう)小崎(おさき)地区

ここは中世の荘園集落が今も息づいている地域である。

宇佐神宮が最も重視した荘園であった。

この地域のことを知ったのは、平成14年度 第11回「美しい日本のむら 景観コンテスト」で
ここの田園風景が賞をとったことによる。
その際のタイトル「生きている中世のムラ」にも強く魅かれた。

 

これがそのときの写真である。

この風景が記憶に残っており、国東半島へ行くときには機会があったら立ち寄ってみたいと願っていた。


  右手の集落が昔からの荘園の管理者の住居地域である。

  背後の山は西叡山。

  平安時代からこの地域の集落の位置や水田もほとんど変わっていないということである。


                    景観コンテスト  説明文

 水田や周囲の景観を中世の時代よりそのままの姿で守り、受け継いでいるのが、ここ豊後高田市「田染荘小崎地区」である。
今から約1000年前より水田の開発が始まり、中世には八幡社の総本社である宇佐神宮が最も重視した荘園であった。

 周囲は国東六郷満山ゆかりの山々に囲まれ、四季を通じて美しい風景を醸しだしており、まさにここは農村の原風景である。
また、ここは水田の発祥から変遷までを知るとともに、水と農の関わりを学ぶことができ、まさに水田の一枚一枚に歴史が刻まれている。

 小崎の里は時代の流れの中で、開発か保存かに揺れたが、保存の道を選択し、住民主体に「荘園の里推進委員会」を設置し、美しい風景・歴史・文化を活かしたエコミュージアムづくりを進め、都市住民との交流を推進している。

 

 

田染荘の由来

 田染荘小崎地区には小崎川が流れており、宇佐神宮の力によって、水田が開発されてきました。
やがて、宇佐神宮が支配する荘園となり、田染荘が誕生します。小崎はこの荘園の発祥の地です。
この荘園は、宇佐神宮の「本御荘十八箇所」と呼ばれる根本荘園の一つで、最も重要視された荘園であり、
11世紀前半に成立したと推定されています。
宇佐神宮は九州内に二万町歩を超える荘園を持った全国でも屈指の荘園領主でありました。

 しかし、鎌倉後期になって、
田染荘は関東の御家人に領主権を奪われてしまいます。
ところが、蒙古襲来のあと、神社も「異国 調伏」などでいくさに貢献したということから、旧神領の返還が認め
られ、宇佐神宮は小崎に屋敷を確保し、管理者の神官の子孫が田染氏を称し、小崎が宇佐神宮の田染支配
の拠点となったのでした。

 小崎地区の現集落となっているところは田染氏の住居のあとで、小崎屋敷・飯塚屋敷・為延屋敷の名称が
今も残っており、集落の原型がこの時代に出来上がりました。

 

 

 全く思いがけずに この地域を訪れることが出来、感激であった。

 時間があまりないので、ざっと小崎地区を通り過ぎたにすぎないが、全体の雰囲気はつかめた。

 

黄金色に実った田んぼの写真と違って、
この時期の田んぼは、まだ水が引かれてない。
 



 
小崎の集落内を歩いて入った。

ここにも梅が咲いていた。

 

 

コンテスト写真では、向かいはなだらかな山である。が、撮影の背後は魁偉な山塊になっている。

間戸(まど)の岩屋」 と言われており、この岩場に 「朝日観音」「夕日観音」 が安置されている。
ここからコンテストのムラを一望する写真は撮られたと思う。

富貴寺の案内所の人も、小崎を望むここからの景観を勧めてくれたが、残念ながら時間がなかった。

 


 

 日本の水田は、戦国時代以降に、治水灌漑技術の発展により開発されたものが多いのだそうだが、
ここは、それ以前の自然発生的な古いタイプの水田だそうである。 
同行者が農学部の助教授であり、周囲の風景を観察しながらいろいろと説明してくれた。

 

 

田染荘付近には、熊野磨崖仏・真木大堂 などもある。

小崎地域から大分空港へ向かうため、山中を桂川に沿って急いでいると、”三の宮”という
やはり奇岩が立つ景観地を通り過ぎた。ここも印象に残る場所であった。


国東半島は古くから独特の仏教文化が栄えた地域である。
磨崖仏なども多く好奇心をそそられる地域である。

 


 戻  る   2004年4月9日

 宇田川 東