奈良・富雄丸山古墳の謎解き に参加する
                                2023年2月 3日



追記1 2023年3月09日  被葬者を特定してみる。
追記2 2023年4月01日  盾形銅鏡、蛇行剣 の意図を考えてみる。
追記3 2023年5月13日  鳥見一族の戦力を考えてみる。
追記4 2023年5月27日  神功皇后と忍熊王との戦い ルート図
追記5 2023年6月01日  建振熊命は謎→「仮説B」を考えた。
追記6 2023年8月21日  佐紀盾列古墳群の航空レーザ測量の結果が公開された。




 富雄丸山古墳は、その109mの巨大な円墳と、異形の盾形銅鏡と長大な蛇行剣が出土して大騒ぎになっている。
 ・1月25日に奈良市からプレスリリースされたのが発端だ。
 ・奈良テレビニュースの報道(YouTube)が詳しい。

翌朝(1月26日)の新聞(大阪版)はどこも1面で扱っていたとのこと。








 私は青年時代に奈良県の富雄に 7,8年住んでおり、土地勘を有しているので この古墳に強い関心を抱いている。
 この地は、富雄川に沿った細長い谷間に似た地(右岸は矢田丘陵。左岸は低い丘陵が入り組んだ複雑な地形)で、
 古代史のなかでも極めて古い伝承が残っている地である。
 春から初夏にかけ、富雄駅から矢田丘陵沿いに矢田寺までよくハイキングしたが、当時は途中の丸山にある古墳はまだ全貌は不明だった。



この「富雄川流域」エリアは饒速日命ニギハヤヒ ミコト)の伝承が濃厚である。
北九州・遠賀川河口から出発した饒速日命一行は、大阪湾に到着し、当時は海岸だった交野から山塊にある磐船神社経由で、
土地の豪族・長髄彦ナガスネヒコ)の領地に入り、(妹の御炊屋姫を娶って白庭山の地に滞在した後)、富雄川沿い大和の三輪山の麓の唐古・鍵遺跡地に入った。
(古代史の復元)

〇饒速日命は、AD25年に北九州を出発し、
 瀬戸内経由で大阪湾に入り、交野から磐船神社の地経由で大和入りを果たした。
 参考: 饒速日命の大和侵入(古代史の復元)



〇神武天皇は、AD78年に日向を出て大和の饒速日命の本拠地を目指した。
 瀬戸内経由で大阪湾・草香津に到達し、生駒越えで大和侵入を目指したが、
 孔舍衛坂(くえさか)の戦いで長髄彦に阻止され、大和入りは果たせなかった。
 この戦いで兄・五瀬命は負傷し、これが元で亡くなる。
 一行は、紀伊半島を回って熊野経由で大和に侵入した。
 参考: 神武天皇の大和侵入(古代史の復元)
 当時の大阪湾の海岸線は、生駒山系近くまで迫っていた。





富雄川流域図では約12`)と富雄丸山古墳の位置。 (馴染みの地ではあるが、昔と違って宅地化が著しく進んでおり驚いた)
富雄川流域は、長髄彦を族長とする鳥見一族の支配域だが、長弓寺〜近鉄富雄駅〜富雄丸山古墳までの約7`が中心域と考えている。

上から順にピンを示す。

1.磐船神社饒速日命の大和入り地

2.鳥見白庭山の碑(長髄彦の本拠地

3.長弓寺(長髄彦・饒速日命の旧跡地

4.王龍寺(好きな参道がある古刹

5.杵築神社(富雄川岸の地域の古刹

6.近鉄奈良線・富雄駅

7.添御県坐神社(祭神が長髄彦:注1)
 (そうのみあがたにいます じんじゃ

8.霊山寺(広い敷地とバラ園の寺

9.富雄丸山古墳日本一の巨大円墳

10.登彌神社鳥見神社 祭神は饒速日命

11.神功皇后陵富雄丸山古墳から5.4`

 注1:祭神は長髄彦だったが、明治に入り神武天皇敬仰の風潮が強まり、本名を出することが憚られ改称したという。



近鉄富雄駅周辺の富雄川沿いは、昔は鳥見庄と呼ばれ、今も鳥見、登美の地名が残っている。(鳥見→登美→富雄)
饒速日命に従った(25部の物部のうちの)鳥見物部が、富雄川沿いの長髄彦の支配地に定住した、と推測出来る。



饒速日命が率いた25の物部(軍団)
その出身地(左)と 大和の入植地(右)



鳥見物部は、大和国 添下郡 鳥貝郷

鳥貝郷は富雄川沿いで、
長弓寺、添御県坐神社、登彌神社(鳥見神社)が存す。


鳥見物部の一部は、後に饒速日命の東国開拓(AD45〜55年頃)に従って、香取海沿岸(印旛沼・手賀沼周辺)の開拓に従事した。
そして、古墳時代に入ると、3C後半には前方後方墳(北ノ作2号墳33.5m)を築造している。
また、鳥見物部の子孫たちは、その地に饒速日命を祀った 鳥見神社 を多数残している。






富雄丸山古墳は、様々な仮説が必要な 謎に満ちた古墳であり 、何を言ってもイイ状況下なので (笑) 私も仮説を提出してみる。


時系列に並べると.. (出典:私の歴史年表

AD25年 饒速日命が北九州から大和へ向けて出発。
AD83年 神武天皇が日向から出発し、大和入りして(婿入りで饒速日の国を引き継ぎ)初の統一政権を樹立。
249年  卑弥呼の箸墓古墳により古墳時代が始まる。 この時代(3C後半)東国の鳥見物部は前方後方墳を築く。
300年代後半 富雄丸山古墳が築造(4世紀後半)

   


1.富雄丸山古墳は、鳥見物部の子孫の、鳥見連・登美連の先祖の首長墓と推測する。

@この古墳の地(丸山と呼ばれている)は鳥見一族(登美一族)の地
 富雄川流域は饒速日命と長髄彦の伝承が色濃く残っている特別な地域であり、鳥見一族以外の氏族が墳墓を、などは考えられない。

A国つ神扱いの「円墳」である。
 前方後円墳→前方後方墳→円墳 という大和朝廷のヒエラルヒーからは、土着神の子孫の「地祇」扱いになる。
 鳥見物部は、神武天皇に対立した長髄彦と共生していた関係で、朝廷からは他の物部一族より低く扱われていた。
 物部氏の「前方後方墳」は許されず「円墳」であった。(神武以前に東国に渡った鳥見物部は、「前方後方墳」を築造してる。)

B登彌(トミ)神社(鳥見神社)の存在。
 富雄丸山古墳から1.4キロ下流の、対岸の丘陵に登彌神社が存在している。
 後世、登美連(※1)が、祖先饒速日命の住居地であったこの地に祀って創建した、と伝わっている。


左上: 富雄丸山古墳







右下: 登彌神社



※1:後世(815年成立)の『新撰姓氏録』「神別」では、
 No.063 登美連 左京  神別 天神 饒速日命六世孫伊香我色乎命之後也
 No.642 鳥見連 河内国 神別 天神 饒速日命十二世孫小前宿祢之後也



2.出土した 蛇行剣、盾形青銅鏡は..

・蛇行剣
 当時(372年)百済王から破邪の力があるとされる七支刀が応神天皇に贈られた。
 これがきっかけとなって、祭祀用の破邪剣=蛇行剣 が作られ、広がっていったと推測する。
 富雄丸山古墳の蛇行剣が、破邪用として制作された蛇行剣の起源かもしれない。

 6月27日、蛇行剣が報道陣に初公開された。産経ニュースによると、蛇行剣は7か所で左右に曲がっている、と。
 七支刀を意識した曲がりのように感じられた。(2023.06.28 )


・盾形青銅鏡
 被葬者は武人で、神功皇后(↓)を守った大功績のある者で、葬儀に際してその象徴として盾形の青銅鏡を収めたと推測する。
 神功皇后の親衛隊長を務めた豪族か? 
 想像を逞しくすると、当時(372年)百済王から七支刀と共に「大鏡」が応神天皇に贈られた、とある。
 この大鏡は円鏡では無く方形の鏡で、それを模倣して盾形の鏡がつくられたのかもしれない。(2023.04.16)




3.埋葬されていたのは誰か?

 「古代史の復元」に見解を求めた。(2023/1/27)


 《 回 答  2023/1/29 》

『 この近辺は饒速日尊の旧跡地ということで何回も訪問し,思い出の場所となります。
 しかしこの古墳は行ったことがありません。
 誰が被葬者か気になるところですが,4世紀後半というのが非常にまずいですね。
 神功皇后が忍熊王を倒した(注 366年)関係で,多くの豪族が処分されており,この時期の豪族系図が悉く寸断されています。
  (参考: 古代史の復元→ 神功皇后年代推定 )

 また,この頃、前期古墳から中期古墳へと 古墳の形態も変化しています。
 蛇行剣が中期古墳から出土する傾向が強いことから,この変化の流れ沿った境界線にあたる古墳と思われます。
 中期古墳の流れを汲んでいることから,被葬者は神功皇后と深い関連のある人物と推察されます。

 この時期の豪族系図がズタズタですので、被葬者を推定するのは非常に難しいと言えます。
 360〜380年ごろに亡くなったと推定される明確な人物は、古代史の復元でも特定は困難です。』


(注)応神天皇は367年に即位。この時、母・神功皇后(333年摂政〜389年崩御)は存命であった。
   忍熊王は、第14代仲哀天皇の皇子で、第15代応神天皇の異母兄で、反乱は366年。


「古代史の復元」をもってしても埋葬者を特定することは出来なかった。

しかし、「古代史の復元」では、忍熊王の反乱ではなく、神功皇后がクーデターで忍熊王から皇位を簒奪した、と考えている。
神功皇后が摂政で大和を不在(新羅征伐で九州に滞在)していた時期、大和では忍熊王が天皇として実質的に在位していたと。
忍熊王と神功皇后の戦いは、一方的でなく戦力は拮抗しており、忍熊王につく豪族も多かったことが窺える。 <参考:頁末の「古事記物語」>
忍熊天皇は大和で旧体制の豪族(物部氏、大伴氏ら)に支えられており、(饒速日命と共に働いたプライドが有りながら)冷遇されてきた
鳥見物部にとって、旧体制打倒の千載一遇の好機到来であり、神功皇后側に従って、維新軍として大功を立てたのかもしれない。



 古墳の主は、鳥見一族の出身者で、忍熊王の反乱で大功があり、神功皇后から墳墓の造営が認められたが、
 氏族の序列は守られて円墳だが、特別に「巨大な」円墳を築造することが許された 重要人物だろう。
 墳墓も、維新サイドらしく、円墳は旧来と異なった造出付きであり、埋葬品も新世代の器となっている。


       

4.これ↑を、「この時代になぜ巨大な円墳が?」 の謎の回答としておく。



以上、昔 富雄に住んでいた者の目から見た 一つの謎解きの回答である。


      ー お わ り ー



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 被葬者は誰だ?   2023年03月09日


 一と月を経て読み返してみて、被葬者が特定できていないのが 無責任で全くツマラナイと感じた。
 この時代の豪族系図が寸断され伝わっていないなら、豪族系図を無視して乱暴に推理する他に手立てはない。

    ・ ・ ・ ・ 

 神功皇后の側近で、忍熊王の反乱で大功があった者といえば、武内宿禰建振熊命たけふるくまのみこと) があげられる。
 武人では、忍熊王側では伊佐比宿禰、神功皇后側では建振熊命 が将軍として、相戦っており、
古事記にも記されている。 ※1
  ※1:この時、忍熊は、難波の吉師部の祖である伊佐比宿禰 を将軍とした。
     太子の方は、丸邇の臣の祖である難波根子建振熊命 を将軍とした。

  日本一の巨大円墳に葬られるにふさわしい武人で、破邪剣と盾形銅鏡が似合うのは 現時点では 将軍・建振熊命 と思われる。


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 建振熊命は鳥見一族であり、それで富雄川の地に円墳築造が認められたのであろう。(この地は後に ”丸山” と呼ばれる。)
 富雄川流域は、武勇の誉れの高い長髄彦一族の本拠地で、後世 有力な武人が出てもおかしくない土地柄だ。

 また、彼は(神功皇后から新たな姓を賜り)和珥氏※2)の祖となって、富雄川流域から最も近い東側(同じ添下郡)に領地を得ている。
 そこには巨大な神功皇后の御陵全長267m : 全国第12位 )が造られ、新しい形式(盾の形)の前方後円墳・佐紀盾列古墳群がある。
 (築造順は 富雄丸山古墳→ 神功皇后陵→ 他の佐紀盾列古墳群 と推定される。)


建振熊命一族(和珥氏)は、
大恩のある神功皇后の御陵を、自分たちの領地に設定してもらい、
その造営に従事し、御陵を守って勢力を拡大したように思われる。

そして、富雄川流域は 
饒速日命・長髄彦から続く 一種の聖域として 手つかずで残された。


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※2 和珥 は、和邇・丸邇・丸とも書く。(ウィキペディア) 
   ( 丸 → 丸邇→ 和邇 → 和珥 へと変化したのではないだろうか?)

建振熊命は、古事記では(系譜は記載なく)丸邇(わに) の臣の祖と記されている。 ※3
元々は (=丸邇で、これは丸山(古墳)を祖とする一族、との意味にもとれる。



※3
古事記の応神天皇の項で、天皇が 丸邇之比布礼能意富美ワニ・ノ・ヒフレ・ノ・オトミ)の娘、宮主矢河枝比売 を妻にして生んだ子、3名が記されてる。
この丸邇(わに)の人物は、建振熊命の息子で、その名の「意富美」は「地名の登美」にちなんだ名前に思われる。
建振熊命は鳥見一族と推定してきたが、息子の名前でそれが裏付けられた。 丸邇氏は、富雄川流域を本拠地とする鳥見一族の出である。 (2023.04.14)




 《 メ モ 》 (2023.04.15)
 和邇氏の拠点・天理市和邇町(隣)にある東大寺山古墳(前方後円墳、全長140m、4世紀後半頃の築造 )が、健振熊命のご陵という説がある。
 しかし4世紀後半頃の大和で、(出自が不明な)一将軍が「前方後円墳」の築造を許されるとは思えなく、この説に疑問を持っている。
 
 「わに氏」と言われても、佐紀盾列古墳群のある添下郡の「わに氏」と、天理市和邇の添上郡の「わに氏」は別氏族ではないだろうか?
 添下郡は「丸邇」で、添上郡は「和邇」で、古事記の因幡の白兎では、海に住むワニを「和邇」の字で記している。
 古事記が健振熊命に使った「丸邇」は丸の意味で、海の「和邇」とは異なっている。 丸邇には円墳の富雄丸山古墳が似つかわしい。






 《 関 連 》 武内宿禰のご陵 (2023.04.26)

 神功皇后の側近で、建振熊命と共に大功があった武内宿禰のご陵は何処にあるのだろうか、気になった。
 武内宿禰は、12代景行天皇〜 16代仁徳天皇の5代の天皇に仕えたと記録される忠臣で、個人名ではなく、世襲名と推定し、
 3代の人物が相当すると考えられている。 (「古代史の復元」 武内宿禰の謎: 忍熊王の反乱は武内宿禰Bが該当) 
 大和政権中枢の大臣クラスの人物なので、当然 ご陵は前方後円墳と考えられる。

 武内宿禰 伝承のある陵は、奈良県御所市室にある「 室宮山古墳 」 別名「室大墓」 だった。(豪族分布図↑ 参照)
 5世紀初頭に、南葛城の地に突如現れる
大形(盾形)前方後円墳で、墳長238mという破格の規模(全国第18位)で、
 「大王の柩」といわれる長持形石棺を有している。 大和で、大王家一族を除くと、臣下では最大の前方後円墳と思われる。

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 室宮山古墳 も 富雄丸山古墳 も、前代の系譜を引かずに突如現れる大形墳墓という点で共通である。
 室宮山古墳は、(大和盆地を挟んで)富雄丸山古墳の真南に位置しており、後円部径148mは、富雄丸山古墳の109mより巨大。
 建振熊命の巨大円墳、武内宿禰の巨大前方後円墳 共に神功皇后の側近で大功のあった者に似つかわしい。

 ところで、形態(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳)はその社会での出自を示すが、被葬者のその社会での重要度・影響度の指標となるのは、
 墳丘の核となる円墳部分(後円部)の大きさである。 例えば 箸墓古墳は墳長276m、被葬者が埋葬される後円部は150mである。
 富雄丸山古墳(109m)は、被葬者の出自(地祇)を省くと、墳長200mクラスの大型前方後円墳(の後円部)に匹敵する。
 そんな日本一の巨大円墳にふさわしい武人は、この波乱の時代では、やはり 古事記で活躍する将軍・建振熊命 しか見当たらない。




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鳥見一族の戦力を考えてみる。   2023年05月13日


富雄丸山古墳は、富雄川沿いの豪族・鳥見一族の造営と推定しているが、彼らの勢力・戦力は如何ほどなのか? 
 → 実は大和の土豪連合の盟主で、強力な戦力を有していたと推定している。


建振熊命が、(鳥見一族の出という)低い身分ながら神功皇后に認められたのは、
人望があり、卓越した指導力をもった人物だったから、と思われる。

大和盆地の在地豪族は、経済的実力はつけたが身分が低い為、大豪族の横暴に苦しんできた。
彼は、そのような土豪4族をまとめ、その盟主として 神功皇后側に参加したと推測する。

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この時代、富雄丸山古墳の他に(前方後円墳に匹敵するほどの武器類などを伴った
円墳図:青色タグ)が3つ大和盆地に出現している。(注1)

これらは、富雄丸山古墳と同じく、忍熊王との戦で功績を認められた土豪の円墳と思われる。
 @佐紀盾列古墳群の マエ塚古墳(50m)
 A天理市の 上殿古墳(30m)
 B高取町の タニグチ1号墳(20m)


特徴は、
鳥見一族のナガスネヒコ同様、逆賊として神武天皇に討伐された豪族と、エリアが重なること。
 @は、添県波多(ソウケンハタ)の丘岬(赤膚山)の新城戸畔(ニイキドベ):女性首長
 Aは、和珥の坂下の居勢祝(コセノハフリ)  :祝= 神官、シャーマン → 女性首長?
 Bは、臍見の長柄(ホソミノナガラ)の丘岬(御所)の猪祝(イノハフリ
    高尾張邑(タカオハリムラ)(葛城)の土蜘蛛


建振熊命は、鳥見一族を盟主に、神武天皇の大和侵入に抵抗した気骨ある4土豪からなる「ナガスネヒコ維新軍」を編成し、
神功皇后軍に加わり、神功皇后のクーデターの中核として働き、忍熊(天皇)を支える大和の旧体制の大豪族に対抗した。
そして将軍に抜擢され、勝利し、その大功績で巨大な円墳を認められ、結集した3豪族も武器類などを伴った円墳の造営が認められた。
忍熊王や大豪族に従った土豪は、負けて円墳を造営できずに、記憶から忘れ去られた。

又、同時期に造営された (大和盆地から東国や日本海に向かう)交通路の要衝の近隣2円墳図:緑色タグ)の豪族も、命の軍勢に加わったと推察される。
 C精華町の 鞍岡山3号墳(40m):短甲、鉄剣などの武具が出土してる。
  ・この古墳の木津川対岸の丘陵上には椿井大塚山古墳(3C後半:175m、後円部径110m、32面の三角縁神獣鏡、10s以上の水銀朱が散布)が位置してる。
 D京田辺市の 興戸2号墳(28m):内行花文鏡3面が出土してる。



彼の軍勢は、祖先同様に勇猛で結束が固く、神功皇后から厚い信頼を得ていた。親衛隊長を務めていたのかもしれない。
前方後円墳ばかしに目が行くが、今回は、大和盆地の円墳の主たち がクーデター軍の主役だった。





 当時、彼は代々伝わる、鳥見一族の棟梁の世襲名「 鳥見の長髄彦 」又は別名 登美彦 を名乗り、そう呼ばれていただろう。
 饒速日命に従った、古から続く誇り高き一族の 族長の名前 である。

 大円墳に埋葬される際に、朝廷は、いくらなんでも長髄彦では記録上 都合が悪いと、一代限りの贈り名として、
 栄誉名の「 難波根子建振熊命 ※」を名付けたのではないか? 子孫は改名して丸邇の姓となっている。


  ※建振熊は、熊を退治した猛々しい武人 の意味で、熊は忍熊王を指している。これは業績名で素性が見えない。
   建は、建御名方神、建沼河別命、倭建命、熊襲建 などがある。

  ※難波根子、とは 「応神天皇を支えた忠臣」という意味。難波は(応神天皇の難波大隅宮から)天皇を指す。
   難波根子は特別な尊称で、誰にでも与えられるものではなく、応神天皇の彼に対する気持が表れている。

   → 朝廷は「難波根子建振熊命」を与えることで、本来の出自・素性を隠し、封印したように感じられる。

      △△△△

  古事記で活躍する将軍・建振熊命 の正体は、鳥見一族の長・第17代鳥見の長髄彦 と推定された。👀

         

  富雄丸山古墳は、富雄川沿いの豪族・第17代鳥見の長髄彦 の墳墓 である。 👏 😊

  巨大円墳なわけは、贈られた尊称名「建振熊」が示す 忍熊王を倒した大功績による。      (2023年05月20日)



 ※第17代は、初代と区別するために付けた便宜名称。
  「長髄彦」は、饒速日尊を奉った代を基準に、(神武天皇より古く)天皇家に2代だけ加算した世代とした。

 ※富雄丸山古墳の少し上流に添御県坐神社があり、祭神の一つは長髄彦で、彼を祀ったのが鎮座の起源と伝わっている。




注1:月刊 大和路ならら(2023年5月号) 特集 富雄丸山古墳の謎に迫る
    「富雄丸山古墳の被葬者像」 寺沢和子氏


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だ龍文盾形銅鏡 は どういう意図で作成されたのか?   2023年 4月 1日


盾形銅鏡 は3つのシンボル(盾、鏡、三角形)で構成されており、その意図は明白だ。

は守るためのツール。
 →被葬者が武人であるがゆえに、この形に作成された。

は、祀られる人の象徴。
 (天孫降臨の際にアマテラスがホノニニギに三種の神器を持たせ 『この鏡をそのまま私の魂と思って、
  私の前で拝むように大事に祀りなさい。』 (古事記) と語ったのが始まり。)
 →二つの鏡は、忍熊王との戦いで将軍・建振熊命が守り抜いた母子、神功皇后(上の鏡)と、
  その子の応神天皇(下の鏡)で、二人を祀っている。

三角形 は大和朝廷のシンボル。 元々は饒速日命のシンボルで三輪山をシンボライズしたもの。
 (鋸歯紋、三角縁神獣鏡、吉備の特殊器台などに使われてる。)
 二つの鏡を囲む鋸歯紋は、二人を守る(饒速日命ゆかりの)将軍・建振熊命の意思を示している






蛇行剣(237cm)は、どういう意図で作成されたのか?

この蛇行剣は、盾形銅鏡の上に水平に置かれていた。

破邪の為の剣と考えられているが、他の蛇行剣は65cm程度なので、
この237cmの長さはフツーではない。

盾形銅鏡と同じく、シンボル性の極めて高い破邪剣だろう。




ところで、鳥見一族の特徴・シンボルは何だろう?
饒速日尊、長髄彦といった一族の伝承と、富雄川沿いが根本領地 という二点が挙げられる。

この剣の蛇行と長さ が意味するのは、直線の剣では無く、川をイメージした蛇行シンボル と考えられる。
鳥見一族を象徴する 富雄川をシンボライズした剣 と考えると、その長さが納得できる。

富雄川一族のシンボルの 長大な蛇行剣が、盾形銅鏡の2つの鏡を上から守護している。


 ↑
上の記述から、別案A が浮かんだ。 《 葬送用として、”祀る鏡に、破邪の剣(蛇行剣)を一剣添える” を基本と考える。
 @盾形銅鏡には鏡が2つある。蛇行剣は二剣添えねばならない。 A鏡2枚は盾で一体化されてる。二剣も一体化すべき。
 ∴二剣分の長さの蛇行剣が作られた。  ⇒ 考え方としてはありそうだが、理屈っぽく、後付の解釈用に思える。
実際は2剣分どころでない長さだ。 せっかく思いついたので記した。 (2023年04月06日)

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別案B
長髄彦は蛇神を信仰する一族で、神武天皇は金色の鵄(トビ)に守られ勝った、という”蛇vs鵄”の 神武の大和平定説話があるそうだ。
”蛇vs鷲”だと、アフリカ・サバンナに生息し、長い足で草原を駆け回りヘビの頭を蹴って捕食する「ヘビクイワシ」が連想される。
蛇神信仰に根拠があるならば、蛇行剣は、長髄彦の「蛇をシンボライズした長大な剣」という仮説もあり得るなぁ。 (2023年08月18日)
  参考: 富雄の金鵄伝説



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盾形銅鏡、蛇行剣共に、丸山古墳の被葬者の功績を讃えて作られ、一緒に埋葬された オリジナルな葬送用器具である。
当時は誰もがシンボルとしての 盾・二つの鏡・三角紋、長い蛇行剣 の意味を理解していた。

被葬者を知るものが途絶えた今、 ”私はこういう者だ”、とのメッセージを 掘り出された盾形銅鏡と蛇行剣のシンボルが送ってきている。

        
将軍 建振熊命 様  あなたは思い出されました。


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  神功皇后軍と忍熊王軍の戦い ルート図    2023年05月27日

神功皇后は、凱旋した大軍を九州の地で解散し、
仲哀天皇の遺骸及び皇子(誉田別尊)を伴い大和に向け出航した。

忍熊王の兄・香坂王は東国の兵を集めた。
忍熊王(忍熊天皇)は大和に残っている豪族に出陣を要請した。

神功皇后は武内宿禰に命じて皇子を、彼の故郷・紀伊国に避難させ、
皇后の船団はまっすぐ難波を目指して上陸した。

@摂津の斗賀野の南方・住吉で両軍は戦い、神功皇后軍が勝利した。

忍熊王軍は淀川沿いに宇治まで退却し、陣容を立て直した。

それを見た皇后は紀伊の皇子の元に向かい、武内宿禰ら群臣と
作戦を練り、皇子は、建振熊命を将軍に任命した。

建振熊命一行は、紀の川を遡り、御所市辺りから大和に入った。
大和盆地を抜け、木津川沿いに、南から宇治の忍熊王軍を攻めた。

A山城・宇治の忍熊王軍は強固で戦線は膠着した。
建振熊命は謀略によって忍熊王軍を破った。

B逢坂で忍熊王軍は最後の抵抗を試みたが、敗れた。

C近江の篠波で追い詰められた忍熊王は入水自殺した。

「古代史の復元」より
(2023年05月27日 追加)

  ※応神天皇陵(誉田山古墳) 墳丘長:425m、後円部径:250m。日本第2位の前方後円墳。


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忍熊王の反乱(366年)は、神功皇后が大和の忍熊天皇に仕掛けたクーデターだった。
東国からも兵を集めた、古代日本の岐路を左右した 天下分け目の合戦だった。


忍熊天皇についた豪族たちは処分された。彼らの豪族系図(物部氏 ※1、大伴氏ら)がこの時期で寸断され、古墳の築造も途絶えた。
新たに築造された古墳は、神功皇后に従い 功績のあった豪族たちだった。富雄丸山古墳もそういった古墳であった。
  物部氏、大伴氏 →(忍熊王の反乱:17代長髄彦の活躍)→ 葛城氏、和邇氏

後の世にも同じような天下分け目の合戦があった。 クーデター・壬申の乱(672年)だ。

壬申の乱 は良く知られているが、忍熊王の反乱 は知られていない。
今から1657年前に起きた忍熊王の反乱が、富雄丸山古墳・築造の謎を解くカギとなっている。
富雄丸山古墳をきっかけに、忍熊王の反乱と、建振熊命、第17代鳥見の長髄彦などが 世に知られることを願う。


(※1:物部氏の系図の謎 :五十琴 その後2代の欠落は 「古代史の復元」)


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 建振熊命が 謎の人物 なため、「仮説B」を考えた。  2023年6月1日


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「仮説A」は、(第17代)長髄彦 = 建振熊命。
「仮説B」は、長髄彦と建振熊命は 別人。
   →ならば 何処かに(富雄丸山古墳を上回る)建振熊命のご陵があるハズ であり、それを探すことにした。

(富雄丸山古墳が、在地の豪族・第17代長髄彦の墓であることは AB共に変わらない。)


見失われた建振熊命のご陵は、
 @4世紀後半に築造。
 A墳長200mを越える前方後円墳で、後円部径は110mを超える。副葬品として武具類等が収められている。
 B場所は、神功皇后のご陵のそば。又は、神功皇后陵を向いて造営されている。
  ↓
すると、佐紀盾列古墳群の「佐紀陵山(みささぎやま)古墳」墳長207m、後円部径131m、4世紀後半築造 が浮かび上がった。(※注)
  ↓
この古墳は、
 @(佐紀盾列古墳群)最古の神功皇后陵の次に築造されている。また神功皇后陵のすぐ後ろで、神功皇后陵を向いている。
 A被葬者が垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命とされているが、彼女は神功皇后より先に亡くなっていてこの比定は不自然。
 B大型の盾形埴輪が出土しており被葬者は武人かも。
 C和邇の祖の陵とすると、この地は和邇一族のエリアなので合点がいく。
また、武内宿禰の室宮山古墳(墳長238m、後円部径148m)、富雄丸山古墳(円径長109m)と比較しても、中間で規模のバランスが取れている。


■仮説Bに立つと、
建振熊命は、新羅遠征に参加していた古くからの神功皇后の武将になる。一方、長髄彦は彼の部下となる。
長髄彦は(大和の円墳豪族を纏めて)神功皇后軍の傘下に入り、皇后に気に入られ、将軍の片腕として忍熊王戦で大功績をあげた者となる。

仮説Bは、佐紀陵山古墳の被葬者を変えるので、明確な根拠が必要だが、それが無いのが難点だ。なにせ女性の墓を男性の墓、と (笑)



※注
他に怪しかった200m越え巨大古墳( みな忍熊王との戦で大功のあった人物? )は、
@島の山古墳(川西町):4C末-5C初頭 墳丘長200m、後円部径105m 向きが違う 
 前方部からは、首飾り、腕輪などの装飾品が出土し、前方部の被葬者は女性とみられる。
 後円部は不明だが、大功を考えると武内宿禰Bの子(で葛城襲津彦の兄)紀角宿禰が妥当と思われる。
A巣山古墳(馬見古墳群、広陵町):4C末 墳丘長220m、後円部径110m 神功皇后陵を背に造営。
 葛城氏の拠点地域で被葬者は葛城氏の首長説(武内宿禰)があり、和邇氏の祖の建振熊命には合わない。
 古墳の主軸は(13`先の)御所市長柄を指していることが判明。長柄は葛城長柄襲津彦の本拠地で、古墳被葬者は彼と推定する。
B築山古墳 (大和高田市) :4C末 墳丘長210m、後円部径120m 向きが違う。
 古墳の向きは、饒速日のラインに沿っており、武人や大王家とは異なる、特別な祭祀者の墓かもしれない。気にかかる。



<参考1> 系 図 (「古代史の復元」)

・仁徳天皇の時代に、飛騨高山で両面宿儺という怪人が朝廷に背いたので、難波根子武振熊命が両面宿儺を討伐した。(日本書紀)
「古代史の復元」は、建振熊命は数代連続の系統名と。忍熊王と戦ったのは2代目で,両面宿儺を討伐したのが5代目?と。



<参考2> 年代推定 (「古代史の復元」より)

 278年  第11代垂仁天皇即位
 298年  第12代景行天皇即位
 310年  第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命死す
 325年  第13代成務天皇即位
 328年  第14代仲哀天皇 即位
 332年  第14代仲哀天皇死す
 333年  神功皇后・摂政となる。皇子(誉田別命)誕生
 346年〜364年 神功皇后新羅遠征
 366年  忍熊王の反乱
 367年  第15代応神天皇即位
 372年  百済王から「七支刀」と「大鏡」が応神天皇に贈られる。
 387年  応神天皇・難波大隅宮を造る
 380年〜 第17代鳥見の長髄彦死す → @富雄丸山古墳が築造
 389年  神功皇后死す → A佐紀五社神古墳に葬られる
 390年〜 建振熊命死す「建振熊」名を贈られる→ B佐紀陵山古墳に葬られる
 394年  応神天皇 崩御
 397年  第16代仁徳天皇即位
 400年〜 武内宿禰死す → C室宮山古墳 に葬られる




<参考3> これまでに推定した神功皇后の幕僚とその古墳

 参謀・武内宿禰     室宮山古墳 (墳長238m、後円部148m):葛城氏の祖
 将軍・建振熊命     佐紀陵山古墳(墳長207m、後円部131m):和珥氏の祖
 軍人・葛城襲津彦    巣山古墳  (墳長220m、後円部110m):葛城氏の始祖
 軍人・紀角宿禰     島の山古墳 (墳長200m、後円部105m):紀氏の祖
 軍人・17代鳥見の長髄彦 富雄丸山古墳      (円径長109m):大和の土豪連合の盟主

(その他)
 祭祀者・中臣烏賊津連  築山古墳  (墳長210m、後円部120m):中臣氏の祖
     大三輪大友主君 金比羅山古墳      (円径長 95m):大三輪氏の祖


  (感想)
  ↑の幕僚の(忍熊王との戦の)功績は、後円部径で推し計れる、とすると、富雄丸山古墳は、将軍・建振熊命に次ぐ径になる。
  つまり、身分が低い 17代鳥見の長髄彦が、戦闘面に関しては一番の大功績をあげた人物、ということ。
  彼が神功皇后軍に加わらなかったら、神功皇后は忍熊王には勝てず、応神天皇は存在せず、歴史は全く変わっていただろう。
  富雄丸山古墳の巨大さは、歴史を動かした象徴としても存在している、と感じた。    (2023年06月16日)



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2023年8月21日

佐紀盾列古墳群航空レーザ測量の結果 が公開され、築造時の姿そのままの、200m級巨大前方後円墳群の写真が見れる。
全体写真↓の他に、それぞれの古墳について、赤外線写真図 と 等高線図 の二つが公表されており、画期的で素晴らしい。



神功皇后陵: 五社神(ごさし)古墳 (墳丘長267m)
 写真左上の舌状台地の先端部を削って造られてる。
・第14代仲哀天皇の皇后陵


佐紀陵山(みささぎやま)古墳 (墳丘長207m)
 その下の、双子のような右側の古墳。

・右側が佐紀陵山古墳(第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵)
・左側が佐紀石塚山古墳(第13代成務天皇陵) (墳丘長218m)


 左から 五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳 〜 ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳


佐紀陵山古墳だけは、大王家ではなく、応神天皇から特別に許された(和邇氏の祖)将軍・建振熊命の陵では?、と推測しており、
難波根子と称されるにふさわしい 丁寧な造りが感じられる。

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航空レーザー写真では、(樹木で覆われた古墳を丸裸にして)その地形上でどう造営されたかの構造が見える。
陵山古墳→石塚山古墳→神功皇后陵 の造営順序Wikipedia:五社神古墳が、神功皇后陵→陵山古墳→石塚山古墳 と推定できる。

 @台地の先端部を削って造営され、目立つ高台に位置する 一番巨大な五社神古墳が、一番古いタイプと考えられる。
 Aその神功皇后陵を向いて、低い位置から 神功皇后陵を祀るように、陵山古墳が造営されている。
 Bその後に何かの理由で、残った狭いスペースに急いで造ったのが 石塚山古墳と思われる。
 ・土地利用上の制約により不自然な接触が起きている。また、等高線図を見ると、乱れていて雑な造りが感じられる。
 ・スペース内に小さく収めるのではなく、陵山陵より大きく造営しなければならない、という意図を感じる。
 接触した造り方はご陵を冒涜してて、普通ではない。親子、兄弟といったファミリー的関係があって許される設計だろう。何かな?



  《 データ・メモ :Wikipedia 》  (写真の左から順に)
 ・五社神古墳   4世紀末葉 (第14代仲哀天皇の皇后神功皇后陵に治定)  墳丘長267m、後円部径190m
 ・佐紀石塚山古墳 4世紀後半 (第13代成務天皇陵に治定)         墳丘長218.5m、後円部径132m
 ・佐紀陵山古墳  4世紀後半 (第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵に治定) 墳丘長207m、後円部径131m
 ・ヒシアゲ古墳 5世紀中葉-後半(第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命陵に治定)  墳丘長219m、後円部径124m
 ・コナベ古墳  5世紀前半 (第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓参考地) 墳丘長204m、後円部径125m
 ・ウワナベ古墳 5世紀中頃 (第16代仁徳天皇の皇后八田皇女の陵墓参考地) 墳丘長270-280m、後円部径128m
  佐紀古墳群の南に位置するのが、
 ・宝来山古墳  4世紀後半 (第11代垂仁天皇の陵に治定)         墳丘長227m、後円部径123m



佐紀古墳群の東半分の ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳 は 仁徳天皇の后たちのご陵とされている。
推定では、
・397年(仁徳元年) 仁徳天皇が即位。翌年葛城襲津彦の娘の磐之姫(いわのひめ)命を皇后に。
・407年(仁徳22年)(異母妹)八田皇女(やたのひめみこ)を妃に迎えたいが皇后は承知せず、翌年皇后は山城の筒城宮に別居。
・414年(仁徳35年) 磐之姫命が亡くなり、翌々年奈良山に葬った(平城坂上陵)。 → ヒシアゲ古墳
・415年(仁徳38年) 八田皇女は皇后に。 〜431年(履中5年)亡くなる。 → ウワナベ古墳
・427年(仁徳40年) 仁徳天皇は崩御。

Q1.先妻・磐之媛陵は、「ヒシアゲ古墳」が治定なのに、「コナベ古墳」も陵墓参考地になっている。一人に二つの陵とは意味不明?
Q2.後妻・八田皇女は、「ウワナベ古墳」が治定でなく陵墓参考地になっている。
Q3.「コナベ古墳」は、5世紀前半とのことだが、出土した埴輪からは更に古く4世紀半ばとも言われ、ならば磐之媛陵(416年)はあり得ない。
   (出土した円筒埴輪の型式がV式で、340〜379年相当とのこと)


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当時、先に結婚した妻を “こなみ”、後妻を “うわなり” と呼んでいた。(古事記にも、神武天皇の宇波那理が出てくる。)
「ウワナベ古墳」は “うわなり・後妻” に通じ、「コナベ古墳」は “こなみ・先妻” に通じる、と宮内庁は考えていたのか?

「コナベ古墳」はそれとは無関係で、応神天皇の后の「小なべ姫(おなべひめ)」の陵では?、と推測している。
彼女は丸邇の比布礼能意富美(日触使主)の娘(建振熊命の孫)で、ここは和邇一族の地で、建振熊命の陵山古墳も近く、陵の造営はおかしくない。
小なべ姫のご陵があるため、仁徳天皇の后たちのご陵は、河内でなく、この地に造営されたのかもしれない。
「コナベ古墳」の位置は中央で、他の二つに先駆けて最初に築造されたと思える。
  (2023年9月11日 )

 注:「ウワナベ古墳」の八田皇女は、応神天皇と后・宮主宅媛(やかひめ)(宮主矢河枝比売)との間の娘で、仁徳天皇の異母妹。
   古事記には応神天皇と宮主矢河枝媛(やかわえひめ)の出会いが語られてる。(頁末「古事記物語」 目次→宇治の渡し)
   「小なべ姫」は、宮主宅媛の妹で、同じく応神天皇の后。(二人は建振熊命の孫娘)

⇒ 妹のコナベ古墳があるなら、姉の宮主宅媛のご陵もこのエリアにはあるハズ 、と考えると→ 石塚山古墳に到達する。時代的にもあり得る。

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佐紀盾列古墳群は、推論の結果 以下のようになった。 (2023年9月13日 )

        被葬者                   新・推定被葬者          墳丘長
・五社神古墳  第14代仲哀天皇の皇后神功皇后陵に治定 →  第15代応神天皇の母・神功皇后  墳丘長267m
・陵山古墳   第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵に治定 → 和邇氏の祖・難波根子建振熊命  墳丘長207m
・石塚山古墳  第13代成務天皇陵に治定         → 第15代応神天皇の后・宮主宅媛  墳丘長218.5m
・コナベ古墳  第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓参考地→ 第15代応神天皇の后・こなべ姫  墳丘長204m
・ヒシアゲ古墳 第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命陵に治定  → 第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命 墳丘長219m
・ウワナベ古墳 第16代仁徳天皇の皇后八田皇女の陵墓参考地→ 第16代仁徳天皇の皇后・八田皇女 墳丘長270-280m

   神功皇后陵と、その下に双子のように寄り添っている陵。
   不思議な光景の謎がやっと明らかにされた。
      ↓
   寄り添っている陵は、和邇氏の祖・建振熊命と その孫娘・宮主宅媛だった。
   神功皇后陵を敬い、その下に造営されている。

   応神天皇の意向により、母の神功皇后と、母と自分を支えた忠臣・難波根子と、(彼の孫である)愛后、とがここに眠っている。
   佐紀古墳群とは、そういった古墳群であることが明らかになった。

   (なお ご陵から南西(裏鬼門・未申)方向には、長大な破邪剣を持った鳥見の長髄彦の富雄丸山古墳が築造されている。)

       
   応神天皇自身は自分の陵をどのように考えていたのか? それがわかる大発見がありました。→ 応神天皇の大三角形 (2023年9月22日)




 (印象記)
 報告書表紙のレーダー測量図からは、大和盆地の中央を、南から北に秋篠川に沿い、平城山の西端を木津川に抜ける古代の街道が見える。
 大和盆地を抜けて、木津川沿いに宇治へ行き、日本海、東国に至る古代のメインルートの、大和の出口だ。

 この街道は秋篠川に沿っており、左岸に垂仁天皇の巨大なご陵を見て進むと、平城山丘陵の西端に位置する佐紀古墳群に至る。
 川沿いに、段丘上の佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳の下を進むと、丘陵が現れ、上に巨大な五社神古墳が出現する。
 街道を通る人々を見下ろしている。この丘陵を回り込んで進むと木津川に出る。大和盆地を抜けたのだ。
 
  〜〜〜〜〜

 本稿冒頭に掲載した 「富雄川流域と富雄丸山古墳」の地図(Google Earth)を見ると、
 (📌富雄丸山古墳 ー 📌神功皇后陵)を二等辺三角形の底辺とする、その頂点に 緑色の宝来山古墳が見える。
 この古代の街道筋は、その宝来山古墳の東(右)側にうっすらと、まっすぐに北に向かって神功皇后陵に通っているのが、窺える。地図に飛ぶ



 ※謝意:航空レーザー測量図のおかげで上記の推論が可能になり、クラウドファンディングに感謝しています。


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「富雄丸山古墳の謎解き に参加する」を終えて(感想)  (2023年5月5日)

本稿のタイトルは、
「富雄丸山古墳の謎を解く」「謎解きに挑戦」といった大それたものでは無く、「謎解きに参加する」という軽いものです。
昔住んでいた富雄が舞台なので、多数の仮説の中の一つでも、と、富雄川史観 (?) で参加しました(笑)

人によりアプローチの仕方は様々だろうと思います。
私の仮説では、次の3点がクリアされていることが必要と考えました。
@土地との繋がり
 円墳は、在地の豪族が、自分の領地内で築造する墳墓であり、富雄丸山古墳も例外ではありません。
 どんな一族の墳墓なのか、の説明が必要です。
A大きさの説明
 普通サイズと違う巨大な円墳です。何故、巨大円墳なのか、の説明が必要です。
B被葬者と在地豪族との係わり
 被葬者は、確かに在地の豪族一族の出である、との説明が必要です。

極端な情報不足のなか、これはハードルが高いです。しかし、今回はピースがうまくあて嵌りました。

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アップ(2023/2/3)して良かった、と思った返信が ツイッターで直ぐにありました。
 『2023年2月9日: @awagaduさん
 謎解きとても面白かったです。👍
 私は鳥見小、富雄中出身です。笑
 駅の落雷の時は、ピアノのレッスン中で家になかなか帰れなかった思い出が….
 浅川マキいいですねー。


あの富雄の落雷↓を知っていた方が居たという 驚きと喜びでした。


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 【 後 記 】

 富雄は、1969年〜1975年にかけての私の青春の思い出の地だ。
 ここからは、私の思い出の備忘録なので、目を通す必要はまったくありませんので ご注意を!!


 ・当時の近鉄富雄駅は、初夏になると入口の天井にツバメが巣を作り、ヒナのフンが落ちるので 通勤には注意が必要だった。
  もちろん駅員さんは、巣を撤去するなどはせず、危険の注意板を置くだけで、ノンビリした時代だった。

 ・竹に花が咲き、竹藪が枯れ始めた。その年は災害が起きる、と地元の若い女性から言われていたが、夏に起きた。
  強烈な落雷が近鉄の架線に落ち、走ってる車両を通して線路に下り、火の玉となって転がって富雄川の鉄橋に至り、
  鉄橋下のガス管を襲って破裂させたのだ。ガスが漏れ出て町に危険警報が鳴り響いた。

 ・富雄駅の商店街とは反対側には、三輪そうめん工場跡に長屋が数棟あり、親友のOさんなどが住んでいた。
  そこの井戸は、底が浅く、底から湧水が噴出し井戸から流れ出ており驚いた。

 ・富雄の町には小さな通りの商店街があった。電気店、食料品店などの他に「とみお文化教室」があった。
  英語や、お茶、作法 などを教えていた。お茶は石州流で、借景を使った庭園で有名な宗元・慈光院へ行ったこともある。
  ある正月、初釜に招かれた。座敷では上座の先生の横に座らせられた。目の前には2列で対面した若い女性たちが
  ずらっと並んでいて、その和服姿が眩しかった。終わって団欒になり、彼女たちがワイン(当時は赤玉ポートワインだった)を
  注いでくれ、いい気になって飲み、すっかり酔っ払ってしまった。男一人だけだった楽園の思い出だ。

 ・この「とみお文化教室」は今も続いている。
  富雄丸山古墳を調べていて富雄が懐かしくなり、昔お世話になった地元のHさんが健在かと 電話してみた。
  今は83歳でお元気で、教室は始めてから 65年目になる、とのことでホームページを教えて戴いた。

 ・Hさんのスナックで知り合った親友Oさんとは よく史跡めぐりをした。飛鳥の牽牛子塚(あさがおづか)古墳の玄室が印象的だった。
  彼と、当麻寺を経て、二上山に登って大津皇子の墓を見ての帰りの山道でのこと。
  ラジオで秋の天皇賞を聞いていたら、伏兵のヤマニンウエーブが勝って 彼は枠連で万馬券を当ててしまった。
  天皇賞史上初の万馬券だ。急いで富雄に戻って、今井さんち(寿司屋)で祝杯をあげた。

 ・Oさんは、私の結婚式に東京にまで来てくれた。
  出会った当時は大阪外大の6年生か7年生で、SFが好きで、吉本隆明が好きで、淺川マキが好きで ウマがあった。
  あだ名はパンチョでチョビ髭を生やしていた。後に息子がフィギアでショーグンと呼ばれ有名になってからチョビ髭を剃ってしまった。
  末っ子に甘い親馬鹿だ。代々、信〇と名乗る 有名な戦国武将の一族。
                                        (2023年2月3日)







参考: 私の歴史年表
    古代史の復元
    青空文庫: 鈴木三重吉 古事記物語 目次→朝鮮征伐→(三)忍熊王の反乱

   富雄丸山古墳の発掘調査 第6次調査
   富雄の金鵄(きんし)伝説



backtotop.gif (3095 バイト) TOPへ戻る 2023年 2月3日  宇田川 東