卑弥呼が亡くなった 3世紀後半から、7世紀初め350年間にかけて、「 前方後円墳 」が全国で約 5,200基も造られた。
前方後円墳の広がりは、大和から順次 地方に波及していったのと異なり、全国一斉に始まった。

これは既に、列島を覆う
首長ネットワーク (もの・人・情報の再分配システム) が出来ていて、 
共通のシンボルとして 「前方後円墳」 を採用したことを裏付けている。


各地のクニの王は、
前方後円墳を そのクニで一番目立つ場所 に築造した。
自然の中に 突然 ど〜んと現れる 人造の建造物は、そのクニの人々の誇りでもあったろう。

旅人は、前方後円墳を目印に、クニからクニに 陸路、水路を 移動した。
今、この古代のシンボルをたどる旅も 楽しい。




《 記 録 》
 年  月  日   場   所    ジャンプ先
 2014年11月02日(日)  我孫子・手賀沼の前方後円墳を巡る   飛び先G
 2014年10月18日(土)  霞ケ浦周辺の前方後円墳を巡る   飛び先F
 2013年04月28日(日)  筑波山麓・八郷盆地の前方後方墳   飛び先E
 2012年11月11日(日)  房総 「芝山はにわ祭」 と 古墳   飛び先D
 2012年03月21日(水)  多摩丘陵 八角墳・稲荷塚古墳   飛び先C
 2011年10月10日(日)  霞ケ浦・高浜の大きな前方後円墳   飛び先B
 2010年11月27日(土)  明治大学博物館 「王の埴輪」展   飛び先A
               
 2010年11月20日(土)  行田市 さきたま古墳群   飛び先@ 
 2010年11月07日(日)  関東最大の前方後円墳 太田市・天神山古墳
 2010年08月〜  多摩川の河岸段丘上の多摩川台古墳群
           

 





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2014年11月02日(日) 我孫子・手賀沼の前方後円墳を巡る




房総の北総台地には、印旛沼 手賀沼という 古くから開け、古墳が多い地域がある。
手賀沼には 水神山古墳 という 古い前方後円墳がある。





その我孫子・手賀沼で、ジャパン・バード フェスティバルが開催された。
我孫子駅から会場までの巡回バスや、レンタサイクルやシャトル水上バスなどが運行されるので渡りに船と行って来た。




  会場は 多くの野鳥ファンや 自然愛好家で混雑していた。





ジャパン・バード フェスティバルは、メインの第一会場が鳥の博物館、水の館中心。 第二会場が手賀沼公園。
この日は、鳥の博物館隣の 山階鳥類研究所 もミニ講座で開放される。

私は第一会場でレンタサイクルを借り、手賀沼を半周して、手賀大橋経由で第二会場に行き、自転車を返して 根戸船戸古墳に向かった。




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水神山古墳は、鳥の博物館の先の、手賀沼を見下ろす標高20mほどの急峻な台地上に築かれた前方後円墳である。

同じ台地上の西に香取神社があり、その参道を登って台地の上に出る。


農家の脇に狭い入口がある。



急な階段の先に、香取神社がある。




香取神社の周囲には2基の円墳がある。
小道をたどると水神山古墳に出る。


住宅地の間から 後円部が見える。



住宅地をくるりと回って、前方部に出ると水神山古墳で、案内板がある。
「現在地」の場所で、L字型に住宅地に囲まれているのがわかる。



密な等高線が、急峻な台地の端の前方後円墳を示している。

昔は、眼下すぐに手賀沼があった。




水神山古墳全長69m前方後円墳で、4世紀終わりころに築造された。

墳丘は、まばらな杉林で覆われており、墳形がよく観察できる。


                前方部から後円部を望む。                    後円部から前方部を振り返る




後円部墳頂で、割竹形木棺をローム土層で包んだ埋葬設備を発掘。
盗掘されていたが、棺床に朱の散布が確認された。




<追記> 2018.01.10

この古墳は、西日本的工法で築造された。
(= 近畿地方から墳丘構築の技術者が派遣され築かれた)
(「土木技術の古代史」 青木敬 吉川弘文館 2017.10.01 74頁)

→ 被葬者は、ヤマト朝廷とかかわりがある人物であった。





手賀沼を見下ろす台地上、しかも崖ぎりぎりに造られているというのは、
かつて「香取海」の一部だった手賀沼を 舟で往来する人々に、その威容を見せつけるためだったのだろう。



前原古墳のある 高野山桃山公園 から 隣の水神山古墳を望む

前原古墳の方墳2基は埋め戻されていて見ることができない。




水神山古墳があった台地からは、このように手賀沼が眼下に見えたのであろう。
(水神山古墳は樹木が遮ってるので 隣の前原古墳の台地から撮影)





手賀沼を 舟で往来する人々は、水神山古墳を 仰ぎ見たことだろう。



手賀沼の対岸から撮影










根戸船戸2号墳



根戸舟戸古墳は湖岸の丘・「船戸の森」から少し離れた高台にあり、わかりにくかった。

根戸舟戸古墳は、全長22m の前方後円墳で、7世紀最終末の前方後円墳。 
以降 前方後円墳は築造されなくなる。 


           小さな「根戸古墳公園」になっていた。                墳丘の高さも1.6mと低い





手賀沼公園から 船戸の森に向けて 湖岸をあるいていた。
と、 ガードレール外の 芦の茂み脇に キジ が佇んでいた。

吃驚した (@_@)









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2014年10月18日(土) 霞ケ浦周辺の前方後円墳を巡る




秋の好日で、霞ケ浦周辺の前方後円墳を めぐってきた。
古墳の上の草むらにはバッタが飛び跳ねていた。





(1)富士見塚古墳


富士見塚古墳は かすみがうら市により、古墳公園として整備されていた。
展示館も併設されていた。





富士見塚古墳(全長80m、5C末〜6C初)は、霞ケ浦を望む丘陵の上に築かれた、優美な前方後円墳だった。

後円部へ上る石段。




石段を上がり振り返って、後円部から前方部を望む。

左手は霞ケ浦が広がっている。




霞ケ浦側は急峻な崖になっていた。





(2)太子古墳



富士見塚古墳に入って来た田舎道を、そのまま進むと太子古墳に着く。

太子古墳はかつて全長約60mの前方後円墳だったが、現在は後円部の横穴式石室が民家の生垣から覗けているだけ。
のんびりした農村地区だった。








(3)三昧塚古墳


霞ケ浦大橋で 対岸に渡った。 
昔は水路で直接 三昧塚古墳のクニに渡ったのだろう。



三昧塚古墳 (全長85m、5C末)は霞ケ浦の北岸に造られた前方後円墳で、今はそのわきを道路が通っている。
行方市により公園として整備されている。



駐車場の説明版の下にある 模型。

かつては溝で囲まれていた。








                  後円部の階段          階段を上がって前方部を望む。 左手は霞ケ浦。






前方部の上から 湖をへだてて 富士見塚古墳を双眼鏡で探し、発見した。
両古墳は、湖上交通の目印になっていたのだろう。


               三昧塚古墳の全体だが、実際より小さく見える。







(4)権現山古墳


権現山古墳 (全長89.5m、5C末〜6C初)は見つけるのに苦労した。
この前方後円墳は湖に臨む丘陵の上にあり、ここに至る案内標識などもなかった。


近くには、玉里舟塚古墳がある。
大量に埴輪が出土したことで有名である。



小美玉市のこの両前方後円墳は所在地がわかりにくく、
玉里舟塚古墳は外した。














(5)愛宕山古墳


高浜の入江で霞ケ浦から分かれ、恋瀬川の段丘上を進む。
すぐに、二つの前方後円墳がある場所に着く。


愛宕山古墳 (全長96.6m、6C初)は 舟塚山古墳の隣にある前方後円墳。








(6)舟塚山古墳


舟塚山古墳は2回目。
全長186m (5C末)の大きな前方後円墳で、霞ケ浦の高浜入江を臨む恋瀬川の河岸段丘上に築かれている。



          後円部から前方部を望むが広々している。          前方部まで草原を歩いていって、後円部を望む。   





舟塚山古墳から下の畑のネギ畑を見下ろす。
見事なネギが育っている。








遅いランチは土浦の蕎麦屋「吾妻庵」で。
土浦の友人の奥様と 女将がPTA仲間、という店で、つくば時代によく通った。








老舗の風格がある。

もう創業140年になるそうだ。








 

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2013年4月28日(日) 筑波山麓・八郷盆地 丸山古墳



茨城県南部の八郷盆地の中心地・柿岡を流れる恋瀬川。 
そこの河岸段丘にある2つの古墳を訪れた。

丸山古墳 (前方後方墳、全長55m、5C初頭) と 佐自塚古墳(前方後円墳、全長58m、5C中葉)である。





霞ケ浦の終端は 高浜の入江

そこに注ぐ
恋瀬川を 遡っていくと、
筑波連山に三方を囲まれた
八郷盆地に着く。

盆地の中心・
柿岡の、恋瀬川に臨む丘陵に 古い古墳はあった。











両古墳は案内表示が不備なために 辿り着くのに苦労した。



(1)丸山古墳


丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の丘陵という、景勝地に位置する。
全長55m、高さ7mの珍しい「前方後方墳」。







 恋瀬川流域の丘陵上に位置する。




 (筑波山麓・西光院の舞台から撮影)



 
丸山古墳
の前には 佐志能神社 がある。 ともに東国を治めるために派遣された「 豊城入彦命 」の墓と 命を祀る神社 と云われている。
豊城入彦命は、第10代崇神天皇の皇子で、第11代垂仁天皇の兄になる。


『 崇神天皇は、豊城入彦命と活目入彦五十狭茅天皇(後の垂仁天皇)の二人の皇子のどちらを後継ぎとするか悩み、二人の夢で占った。

 豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって、八度槍を突き出し、八度刀を振る」という夢、
 活目入彦五十狭茅天皇は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡して、粟を食む雀を追い払う」という夢を見た。

 そこで、豊城入彦命は東へ向かって武器を用いたので東国を治めさせ、 活目入彦五十狭茅天皇は四方に心を配って稔りを考えたので皇位を継がせた。
 豊城入彦命は東国へ下り、上毛野君、下毛野君の始祖となった。
 』


豊城入彦命 の墓は、
丸山古墳(前方後方墳)の他に、群馬県前橋市・総社二子山古墳(前方後円墳)が考えられている。
丸山古墳の方が古いが、年代と規模を考えると両者共に不適格のように思われる。

※ 第10代崇神天皇は、AD244年即位〜 278年崩御 ( 同時期の卑弥呼は249年死去 〉
   崇神天皇年譜(古代史の復元)では、崇神48年(西暦268)に皇太子を決定し、豊城入彦命に東国を治めさせる、とある。








                 佐志能神社

     全長55m、高さ7mの珍しい「前方後方墳」である。



丸山古墳は、出土した品々からは 4世紀末から5世紀の初期の造営と考えられている。(伝承通りであれば、3世紀後半〜 4世紀初頭位 となる。)

どちらにしても 東国では 第1級の古い古墳




周りをフェンスで囲まれていたが、入り口が開いていたので入れた。







(2)佐自塚古墳


 佐自塚古墳は、長さ58mの前方後円墳で、5世紀前半の築造と云われている。



 「山並みの景観がすばらしい」、と、書かれた丘陵前の水田。
 カエルが泥の中から鳴き交わしていた。


水田に面した農家の脇から、小道に沿って丘陵に入っていく。
杉木立の中に 前方後円墳はあった。

              後円部から 前方部を写す








真壁町の国道を走っていたら、道路脇に沢山のハニワが並んでいる店があった。
はにわの西浦 (西浦製陶)で、こういうのもあるんだ と驚ろき、嬉しくなった。 










ランチは、筑波山麓の鴨料理の専門店 「鴨亭」。
科学万博の職員時代に訪れて以来28年ぶりだった。

料亭はまだ健在なうえに、今年初めには新橋に店を出している。


          個室から筑波山を望む               鴨鍋ランチ定食









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2012年11月11日 (日) 「芝山はにわ祭」 と 前方後円墳を訪れる



成田空港に隣接した、千葉県芝山町は、前方後円墳から出土した ”はにわ” で町おこしを行っている。
11月の第2日曜日に、町をあげて 「 芝山はにわ祭 」 を開催し、このときは無料の巡回バスが走行する、とのことで行って来た。



房総・芝山は、はにわの町というだけあって、芝山鉄道・終点駅の「駅前広場」にも埴輪があるし、国道の要所に「標識として埴輪」が建っている。

         駅前広場のはにわ                  標識のはにわ




はにわが出土した前方後円墳は、殿塚古墳姫塚古墳
両者ともに なかなかいい前方後円墳だった。



殿塚古墳 (前方後円墳、 全長88m、 6世紀中葉)

         後円部から前方部を望む                 横から後円部を望む



殿塚古墳 と 姫塚古墳は二つ並んでいる。
6世紀中頃に築かれた武社国(むさのくに)の国造の墓。
この前方後円墳は、はにわが行列して出土したので有名になった。




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こちらは 姫塚古墳 (前方後円墳、 全長58.5m、 6世紀中葉)


              前方武から後円部を望む            後円部から前方部を望む




殿塚古墳と姫塚古墳は、水田を見下ろす丘陵の上に築かれている。
復元図があった。


水田の上の丘陵ということで、向かいの丘陵上に築かれている感じだろう。 (この場所は少し離れた場所)






芝山はにわ祭は、芝山公園で行われ、広場ステージでのショーや 公園内での屋台は 凄く賑わっていた。




公園内にはミニチュア前方後円墳があり、はにわが並んでいる。
また、出土した埴輪は 芝山仁王尊・はにわ博物館 と、町立はにわ博物館 の二か所で見ることができる。


      ミニチュア前方後円墳と はにわの行列           芝山仁王尊のはにわ博物館






お土産に ”踊る女 のはにわを買った。




右:はにわ   from 芝山はにわ祭
左:フクロウ  from 掛川花鳥園




二つ並べると スターウォーズの R2-D2 にも感じが似てる。













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2012年3月21日(水) 多摩地域の後期古墳・稲荷塚古墳に行く



多摩丘陵にある全国的に珍しい八角墳・稲荷塚古墳へ行った。

多摩川に注ぐ大栗川右岸の 舌状台地に位置し、晴天であったので近くからは富士山が綺麗に見えた。
古墳の上は恋路稲荷という神社になっている。

                    中央奥が恋路稲荷



武蔵の後期古墳は6C末〜7Cで、前方後円墳が終わった後で、円墳・多角形墳などがある。


稲荷塚古墳は7世紀はじめの造営で、八角墳という珍しい形状。
全国に10数例しかなく、対角長は 35m


すぐ脇を通る東山道武蔵路の工事の差配に携わった豪族の墓との説がある。





















京王永山駅から丘を登って行き、丘陵地帯を通って、帰りは多摩川に臨む聖蹟桜ヶ丘駅に降りて帰った。




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古墳を見学していたら、丘の下の方からモクモクと煙が昇ってきた。
火事だったが、人家では無かったので胸をなでおろした。


日当りの良い畑の土手では、ホトケノザが群れ咲いていた。









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2011年10月10日(月) 高浜の大きな前方後円墳を訪れる



東国の古墳の中で、第2位の規模を誇る 舟塚山古墳へ出かけた。。

舟塚山古墳は、南に霞ケ浦の高浜入江を望み、西には筑波山を仰ぐ景勝の地にある前方後円墳である。
古代の交通の要衝の地であり、このクニを通る人々は この巨大な前方後円墳を仰ぎ見て移動したことであろう。



















舟塚山古墳
全長186mで、太田市にある天神山古墳210mに次ぐ、東国第2の規模を誇る。

5世紀後半の築造とされる。










JR常磐線・高浜駅のプラットホームから古墳方面を望む。


 樹が茂っていて 前方後円墳は見えない。









高浜駅から国道沿いに進むと 標識がある。
国道からその小道に入って、しばらく進むと、畑の先に古墳の一端が見えてくる。





巨大な丘に 脇から登る。
後円部の頂に着くと、後円部も前方部も 広々していて、見晴らしが良い。


草原の上はトンボが舞い、バッタ達が飛び跳ね回っていた。

             後円部に登って、前方部を望む           前方部まで尾根伝いに歩き、振り返って後円部を望む








愛宕山古墳



愛宕山古墳は、舟塚山古墳と国道を挟んで反対側の 民家と畑の間に位置してる。
両者間は約300mと近い。

全長96.6m の前方後円墳で、6世紀前半の築造と。。


        民家と案内板との間の小道で上に上がる。
      

      後円部には大きな樹が茂っている。
  

         前方部から 後円部を望む                  前方部を望む。








帰路は、霞ケ浦に出た。




高浜の入江












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2010年11月27日(土) 明治大学博物館 「王の埴輪」展



駿河台の明治大学博物館へ,、霞ヶ浦北岸の前方後円墳から出た埴輪群の展示を見に行った。

霞ケ浦の北岸に位置する小美玉市の玉里舟塚古墳 から 大量に出土した埴輪が展示の中心だった。
この古墳は、全長72mの前方後円墳で、6世紀代に築造されたもの。




明大調査団による古墳発掘のスライドを見た。

雑木が生い茂った丘陵 (前方後円墳) を発掘するに際し、
神主さんを呼んで ご祈祷してもらってから丘陵に立入り、発掘を開始し、
石棺を開けるに際し、お坊さんに供養してもらってから開けていた。

手順を尽くしており、さすが日本、と感じた。
これでは ツタンカーメンの呪いなどとは無縁だ。





展示されていた人物埴輪では、
冠を被った首長兵士の他に、鷹匠力士 などもあった。
そして巫女 と見られる埴輪もあった。













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霞ケ浦北岸の王の墓からの出土品は見事だった。
豪華な装飾付きの太刀馬具 などを見ると、霞ケ浦周辺のクニは栄えていて、王(首長)の権威も大変なものだったと容易に想像できる。
冠を戴いた王は、着飾った馬に乗って、ハレの日には領内を巡行したのであろう。
それを思うと、大和に居る 大王は、いかばかりか...


以降は、霞ケ浦周辺の前方後円墳を巡ってみよう、と思った。







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2010年08月 〜 11月 最初の前方後円墳めぐり


2010年8月に、広瀬和雄 の「前方後円墳の世界」岩波新書 が発売され、これをガイド書として近場の 前方後円墳めぐりを始めた。



@最初に、多摩川の河岸段丘上に並んだ、多摩川台古墳群浅間神社古墳〜亀甲山古墳〜宝来山古墳〜観音塚古墳) と 野毛大塚古墳、加瀬白山古墳 を訪ねた。

A次いで、関東最大の前方後円墳 太田市・天神山古墳 (墳長210m)と 女体山古墳 を訪ねた。

Bその後、行田市・さきたま古墳群稲荷山古墳、丸墓山古墳、将軍山古墳、二子山古墳、愛宕山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳) を訪れ、集中した前方後円墳の群れに驚いた。


ところが、2010年の写真が PCがクラッシュして失われてしまった。
早く HPにアップしておけばよかったのに、と悔やまれた。


この時期、ツイッターでは 古墳は呟いてなく、 食べ物の 「行田ゼリーフライ」 がツイートされていた(笑)


行田ゼリーフライ (博物館入り口前の ことぶきや食堂)



さきたま古墳群の行田市は、行田ゼリーフライ がB級グルメ。

お好み焼きと 衣を取ったコロッケ の合いの子みたいで、
足袋工場で働く女工さん達のおやつだったらしい。







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前方後円墳めぐり用に 「所在地マップ」 を作って使用していたので、それを掲載する。


(1) 東京湾周辺の 前方後円墳の位置

 
(2)荒川、利根川 上流の 前方後円墳の位置

 

                        

 


  

backtotop.gif (3095 バイト) 014 10月28  宇田川 東

 

 

リンク: 私の歴史年表 当初、前方後円墳めぐり のために作成し、その後 データを追加した