2008年12月25日


ローマの王(歴史)

 兄殺しの王様ロムルスがつくりあげた、古代ローマは七代の王を輩出してから共和政に変わっている。ふつう古代ローマというとこの共和政ローマと、その後にくる帝政ローマを指しているので王様が治めていたローマの歴史や記録はあまり残されていないのだが、後のローマの礎をつくったのはこの時代の王様たちだった。

 ところで王様といえば王冠をかぶってマントにヒゲの偉そうな姿を思い浮かべるかもしれないが、ローマではやや事情が異なる。まずもってローマの王様はそこらの市民と同じ格好をして宮殿もなく他の人と同じような家に暮らしていたし、後にリクトルと呼ばれる先導がつくまでは護衛すらいなかった。その生活は晴耕雨読を地でいくようなもので、元老院議員や市民に囲まれているときを除けば放牧した牛を追っているか、手にクワを持って畑を耕していたものだ。
 そもそもローマの王は終身でこそあったが世襲ですらなかったし、死んだら次の王様は元老院や市民がてきとうな人を探して王になってくださいと頼んでいた。王様としての仕事は二つあって、国の祭儀で司祭を務めることと法律を考えることだったが、法律は市民集会で可決されなければ決して認められなかった。ローマの王様は家族会議の父親を国家の父親に拡大しただけのものだったから、お父さんが家庭を背負うくらいのつもりでローマを背負っていたのだ。

 最初の王ロムルスは近隣のサビーニ人を併合して、移民や合併された人も平等なローマ人だという伝統をつくった。次の雇われ王様ヌマは宗教を整理して、国の祭りにさえ参加してくれたら誰も好きな神様を崇めてよいことを決めた。平等な市民権と信仰の自由、この二つの車輪でローマは領土拡大への道をひた走る。時は流れて五代目の王、エトルリアから来たタルクイニウスは素朴な農民ばかりのローマに商売とインフラストラクチャーを与える。
 多民族が集い信仰の自由も認められて、市民の財産を守る法律と便利なインフラストラクチャーも用意されている。七代目の「驕慢王」タルクイニウスが元老院も市民も無視した統治をして失脚するまで、250年ほどの間にこの国の礎はできあがったのだ。ローマ王政が終わりを告げて共和政になってからも、変わったのは主に二つのことだけだった。

「王様ではなく二人の執政官が一年任期で統治する」
「王様になろうとした人は死刑」

 ただ何をすれば王様になろうとしたのか、それを決めるのを誰も忘れていたから多くの人がこれで命を落とすことになる。数百年後に元老院議員が特権を乱用して富と農地を独占していた頃、改革派の旗手グラックス兄弟がこれを非難して富の公正な配分を求めた際に、彼は民衆の人気を得て王様になろうとしていると言いがかりをつけると棍棒で殴り殺してしまったのだ。

 王様という言葉をナチスとかヒットラーとか入れ替えれば、今でも人類は似たようなことを繰り返している。
>他の戯れ言を聞く