2009年01月13日


十二表法(歴史)

 紀元前509年の共和政ローマの開始から、権利向上を訴えた平民がモンテサクロの聖山に立てこもったのが紀元前494年。彼らの主張や要求の中に貴族が独占していた法律を皆に開示しろというものがあった。それまで神官や裁判官を元老院議員が兼ねていたローマでは、神様の機嫌次第で判決が変わることもあったから平民の不満はもっともだ。
 当時はギリシアのアテネで有名な民主政が花盛りの時期であり、元老院はそのギリシアに使節団を派遣すると十人委員会をつくって彼らに法律を編纂させることにする。こうして紀元前451年に10表、翌年に2表が制定されたのが後に十二表法と呼ばれることになる、ローマ最初の成分法だ。

 ところが共和政50年の成果ともいえるこの十二表法、その内容はたいへん不評だった。平民の要求を入れて民主政アテネを訪問した成果である筈のローマの法律、十二枚の銅板に書き記されていた内容といえばそれまで不文律で守られていたことの踏襲ばかりだったのだ。ちなみに現代にも伝えられている条文では裁判や借金に関する法律や私有財産の保護、暴力や詐欺に対する刑罰など様々だが変わった例を挙げてみると「明らかに醜い子は殺さなければならない」なんてものもある。王様になろうとした人は死刑という下りに対して、王冠を頭に載せただけでは罪にならないというあまり意味のないフォローも入っていた。

 だが平民が最も不満を訴えたのが貴族と平民の結婚を禁止した条文である。護民官出身者など平民が新しく貴族になる方法は設けられた。だが貴族と平民の区別は厳然と存在して平等にはほど遠かったし、よりにもよって十人委員会の代表格であるアッピウス・クラウディウスがとある平民の娘をたらしこむために彼女を奴隷に落としてから自分の所有に変えようとしたりしたから平民たちは総決起して、再び聖山移動が起こるほどの騒動になったのだ。
 だからといってこれがローマ元老院の硬直性の現われかといえばそうではない。十二表法が明示されたことによってはじめて、平民たちはそれを直してくれと声を上げることができるようになったのだから。実際に貴族と平民の結婚は紀元前445年のカヌレウス法で認められたし、紆余曲折の後に紀元前287年、ホルテンシウス法で貴族と平民の平等が確認される頃には古臭い十二表法は有名無実化していたが、古い法律を100年も200年も後生大事にしないローマ人が最初の一里塚に立てたのがこの十二表法なのである。

 ちなみにアテネの民主政は当時、大政治家ペリクレス一代の間は栄えていたが、彼が失脚するとあっという間に衆愚政治に堕して滅んでしまっている。
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