2009年01月27日


分割して統治せよ(歴史)

 ケルト来襲後、荒廃したラテン連盟諸都市の中でも「第二の建国者」カミルスの指導で復興を果たしたローマは時には軍事で、時には外交で周辺諸市を屈服させていくと強国の立場を取り戻していくことになる。紀元前321年、南の山岳民族サムニウム人に降伏するカウディウムの屈辱のような敗戦もあったが、気がつけばローマはイタリア半島の統一をほぼ成し遂げていた。
 一次二次と続いたサムニウム戦役ではゲリラ戦術を駆使する相手にローマは周辺の征圧を進めて紀元前304年にいったん講和、だが数年後にサムニウム人どころかエトルリア人にケルト人まで結託して立ち上がると第三次戦役が勃発する。非常事態宣言が出される騒ぎになるが、あいかわらず仲の悪いエトルリアを分断させたローマ軍は続くセンティヌムの会戦で敵を撃破、前290年にはサムニウム人もようやく屈服して三次に渡る戦役は終結した。

 分割して統治せよ、という言葉がある。ラテン語ではディビデ・エト・インペラといってローマの統治政策を彼ら自身が称したものだ。ラテン連盟を解体したローマは新しくローマを中心とした連合を樹立していくことになるのだが、連合はローマが主導して各諸市がローマを介さず関係を持つことは認められない。
 統治政策の芸術とも称されることになるこの政策、実施においても徹底しており各市はその力や関係によって別々の立場が与えられる。自治都市や同盟市や属州、ローマ人自ら入植した直轄地という具合だ。そしてこれらは隣接せずに同盟市や自治都市の間には直轄地がクッションとして設けられる。多民族多人種、国や各都市が治められる「帝国」の礎ができたのは実はこの時代、元老院が統治する共和政ローマによってであった。

 この時代のローマは多くのものを生み出している。高名なアッピア街道にはじまる、同盟市へ直線に伸びるローマ街道を敷設して途上に軍団兵が入植する都市を建設するようになったのもこの頃からだ。沿道には里程標やサービスエリアが用意されて山賊や野盗も現れず、便利なことこの上ないから多くの旅人や商人が往来する。いざとなればサンダルの音を蹴立てて軍団兵がやってくる。街道でつながれた連合諸市はローマと一緒に発展したから離反する者もほとんどいなかった。
 元来が陸の民であったローマ人は当事、イタリア半島がどんな形をしているかも知らなかったろう。彼らの前進が海にさえぎられるまで、ローマは周辺諸市を屈服させて街道を伸ばし、入植都市の建設を延々と繰り返すことによって後世から芸術と称されるほどの帝国をつくり上げてしまったのだ。

 そういえばもうひとつ、この時代のローマが生み出したものにペルナッキアという風習がある。ローマ人を迎え入れることになった地では住民たちがニコニコ笑い、地元の言葉でなにやら叫びながら手を振ってみせるのだが、彼らはたいていこんなことを言っているのだ。

「ばかやろう!この盗っ人ども、お前たちの家へ帰れ!」

 ローマの手でイタリア半島が統一されていく中で、彼らが使う言葉もラテン語に統一されて融合された文化、協調する信仰、充実したインフラストラクチャー、そして豊かな交易で満たされていくことになる。まさしく偉大なるローマにふさわしい所業である。
>他の戯れ言を聞く