2009年02月02日


戦争の天才(歴史)

 イタリア半島は長靴に似た形をしている。ラテン諸市を屈服させながら勢力を広げてきたローマは、南へ進むうちに長靴のかかとにある海港都市タラントにたどりついた。タラントは商業と海運で栄える自治都市で、大ギリシアと呼ばれるギリシア商人の入植によって建てられた町の一つである。とはいえ大ギリシアとは名ばかりで、彼らも自分たちさえ良ければ他は知らないというエトルリア人と大して変わらない人たちだ。母国ギリシアとも商売以外の繋がりなんてありはしない。

 そのタラントにローマが結ばされていた条約に、ローマの船はタラントを超えてはいけないというものがあった。つまりタラントがローマを締め出していたのだが、船なんてほとんど持っていないローマには痛くもかゆくもない。だが今やイタリア半島を制しつつあるローマは街道を歩いてやってくる、その相手にタラントは不平等な条約を結んで平然としていたのだ。
 ある日、10隻ほどのローマの船がタラントに停泊させてくれとやってきた。もちろん条約には違反しているが、あろうことかタラントはこれに襲いかかると沈没させてしまう。これはやりすぎだ。怒ったローマが宣戦布告するがタラントには迎え撃つ軍隊がない、だから外国から金で雇おうということになって白羽の矢を立てられたのがエペイロスの王ピュロスである。

 当事のギリシアではアレクサンダー亡き後、アレクサンダーかぶれが増えていたがピュロスもその一人だ。一国の王様であるにも関わらず戦争請負業者のようなことをして、各地で武勇を振るっていた。ギリシア人はギリシア人以外をすべて蛮人と呼ぶ習慣があったのだが、タラントに雇われたピュロスはイタリア半島まで軍勢を連れ出してローマ軍団に対峙すると一言、

「あの蛮人は陣形を見る限り蛮人ではなさそうだ」

 戦争の天才と呼ばれるピュロスはローマ人が「ルカーニの牛」と恐れた象兵まで活用して連戦連勝、その戦法は中央を重装歩兵が迎え撃ちながら左右を象が蹴散らして、背後に騎兵がまわりこむというもので後に天才ハンニバルがこれを応用することになる。ローマ軍は自慢の歩兵で敵を圧倒していると思い、気がつけば四方を包囲されて敗退するしかなかった。
 だがピュロスの軍勢も手痛い打撃を受ける。もともとピュロスが率いる兵士はタラントが雇うという約束をしていたのだが、金を惜しんだ商人のせいで彼は自らの手勢でローマと戦う羽目になった。戦えば犠牲は出るがタラントはそれを助けない、この理不尽な戦いから後に割に合わない勝利のことをピュロスの勝利と呼ぶようになった。困ったピュロスは講和をもちかけるが、何しろ「祖国は鉄で再建する」ローマだから戦争に負けて講和するなんて思いもしない。例のアッピア街道を敷設した盲目の老人アッピウスに叱咤された元老院はピュロスの申し出を謝絶、数百人の捕虜を連れたピュロスの使者を律儀に捕虜ごと送り返したほどである。

 タラントが約束を守らないこともあってそのままシチリアに転戦したピュロスはカルタゴ軍を撃破、数年してタラントに戻るが勢いを取り戻すどころか倍増していたローマを相手に多勢に無勢、今度は負けてしまうとエペイロスまで帰還する。その後もマケドニアの王様になって各地で戦うが紀元前272年に戦死、47年ほどの生涯だった。
 ピュロスはアレクサンダーの後継者を自認しており、かの天才ハンニバルも戦術の師としてその名をあげたほどの人物である。その戦争の天才をしてローマに勝ちながらローマを屈服させることはできなかった。ピュロスが去った後、タラントはかんたんにローマに降伏するが長靴のかかと、土踏まずの場所にあるタラントは2000年後の現在でも港湾都市として栄え続けることになったのだ。

 大ギリシアではなく、ローマのタラントとして。
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