2009年02月04日
クルスス・ホノルム(歴史)
ケルト襲来以降、ローマはイタリア半島を統一するまでにさんざん試行錯誤を繰り返していたが、この頃になれば国政も定まるようになっていた。二人の執政官が政策を立案して元老院が助言と勧告を行い、市民集会が可決する。共和政ローマの基本路線は変えることなく、十二表法の設立に伴いこれを改正していくことによってローマ共和政の絵は描きあがっていった。
ローマの民会は三つあって、それぞれクリア会議にケントゥリア会議、トリブス会議と呼ばれている。貴族集会であるクリア会議は形骸的なものになっていたから、市民集会の役目はケントゥリア会議が果たしていた。ケントゥリアとは百人隊のことで、集会では一つの百人隊が一票を持っている。だが百人隊には貴族や騎士が多くの兵を出していたから、結果として彼らの意見が国政に反映されることになった。何しろ貴族と騎士だけで全193票中の98票を占めているのだ。これに不満を持った平民が設立したのが平民集会、トリブス会議で護民官(トリブヌス・プレビス)を選出するための会議だったが、後には政策決定権を持つようにもなっていく。
ローマにどんな官職があったか。護民官は平民のみ就くことができて政策への拒否権と肉体の不可侵権があり、任期を終えた者は元老院入りが認められる。市民にはクルスス・ホノルムと呼ばれる立身の道が存在し、財務官、造営官、法務官、そして執政官へと続く。財務官(クアエストル)は軍団長や属州総督の下で財政を担当する。造営官(エデイリス)は首都を管理するのが役割だが、公共事業や祭儀を主催することができるために民衆の支持と票を確保するには格好の役職で、官界の登竜門的な見方をされていた。
法務官(プラエトル)は司法を担当し、国務官とも呼ばれる。執政官が不在の場合に元老院を召集したり、軍団指揮を担当したりと執政官代理の色彩も濃い。法務官経験者はプロプラエトルといって、属州統治に派遣された。執政官(コンスル)はクルスス・ホノルムの到達点で平時には政策を立案する権利を持ち、戦時には二個軍団を率いる司令官として戦地に赴く。執政官経験者はプロコンスルと呼ばれ、1年任期の執政官に代わって長期の戦線を引き継ぐこともあった。
他には監察官(ケンソル)があって五年ごとに行われる戸口調査のために任命されるが、彼らは資産を調査するに当たって元老院議員を含めた素行の調査をする権利と、地位に相応しくない者を弾劾する権利を与えられていた。そのため監察官は時として執政官以上に強力な官職で、盲目のアッピウスや大カトーといった高名な人物が就いたこともある。
戦乱や国政の混乱が深刻なものになれば独裁官(ディクタトール)を任命することもあった。執政官の一人が指名することで選出され、国体を変える以外のことは何でもできた。カミルスのように国を建て直すために連続して就任する例もあったし、キンキナートゥスのように16日間で敵を撃退して辞任してしまった例もある。
こうした中、勧告機関として存在しながら実際には絶大な力を振るっていたのが元老院議員である。いざとなれば「元老院最終勧告」と呼ばれる非常事態宣言を出すこともできたが彼らの真の力は権威に基づいており、その所以は国を主導する者としての自覚と態度に他ならない。戦争となれば市民の先頭に立って突撃して、公共事業には身銭を切って奉仕する。元老院は自分たちを国家の父と定義しており、厳格な父親らしく家族を守るために常に身を賭していたのだ。ピュロスの副官キネアスが講和の交渉にローマを訪れた際、帰還して報告した言葉がある。
「ローマに王はいない。だが300人の元老院議員一人一人が王である」
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