2009年02月16日


カルタゴ(歴史)

 ポエニ戦争とはフェニキア人との戦争という意味である。そのフェニキア人が建設したカルタゴ、シチリア島の利権を求めて愛国ローマが宣戦した相手はどんな国であったのか。人種としてのフェニキア人は今のレバノンあたりの出自であり、セム語圏に属するからユダヤ人に近い。ギリシア人同様に海洋民族であった彼らは地中海の各地に勢力を伸ばしていたが、伝説では放浪の女王ディドーがアフリカ大陸北岸に設けたその地に「新しい都」カルト・ハダシュトと名づけたのがはじまりとされている。ナポリやニューヨークと同じ由来だ。これが現地の言葉でカルタゴになったのが伝説によれば紀元前814年、ローマ建国より100年近く前のことである。
 メルカルト、ハダデ、アスターテといったフェニキア由来の神々を信仰しているが、微妙に名前が変わっていたりディドーが神々の列に加わったりとちょっとした違いもある。東地中海をわが海としていたギリシア人に対して西地中海に君臨し、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカを南下したこともある。当時地中海を二分していたギリシア人もカルタゴ人も、新興の第三者が自分たちを打ち負かすなどと考えてもいなかったろう。

 現代に生きる多くの人々が忘れてしまっているが、古代の北アフリカは緑あふれる大農場地帯で見渡す限りの畑が広がっていた。ここが不毛の荒野に変わるのはローマが衰退して以降だが、商売だけではなく農業にも通じていた彼らはカルタゴを一大農産地とする。これに今のスペインがあるイベリア半島から産出される、金銀鉱石まで加わるのだから手に負えない金持ち国家だった。
 古代ローマの史家が曰く、カルタゴ人は約束といえば嘘を意味するし目上には卑屈で目下には傲岸、赤ん坊をバーベキューにする残虐な連中とのことだがこれはあくまでローマの目線である。商人は嘘をつくものだし実際に赤ん坊を捧げる儀式も行われていたが、それが生贄だったのか単なる火葬だったのかは分からない。人身御供の習慣は野蛮としてローマでは嫌われていたが、後に第二次ポエニ戦役では国難の中でローマ自身もこの風習を再現している。

 貴族が議会を作り、施政官が統治する制度はローマに似ている。だが多くのカルタゴ人は戦場に出ることを嫌ったから、戦争では将軍が傭兵団を率いて戦うのが常であった。海運国らしく自慢は海軍で、五段層櫂船をずらりとそろえている。船の両脇に突き出たオールが五層もある巨大な船で、ちなみに当時のローマは三段層櫂船すらろくに持っていなかった。だがカルタゴではいつも国論の分裂が絶えず、農地を基盤にする保守派の貴族と、鉱山収益を抑える商人がたびたび対立していた。もちろん好戦的なのは商人で金にあかせて有能な軍人や将軍をいくらでも引き抜いてくることができたのだ。

 このカルタゴに現在でも残されている遺跡の数々は、そのほとんどがカルタゴが滅びた後にローマが建てたものである。なにしろカルタゴはエトルリアと同様に、ローマに滅ぼされると草すら生えないよう徹底的に破壊されてしまった。現代の人々はローマ人の言葉だけを頼りにしてカルタゴの足跡を追わなければならないのである。
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