2009年03月03日


ローマの反攻(歴史)

 歴史家リヴィウスが残した言葉がある。もしもアレクサンダー大王がローマに戦いを挑んでいたら、それでも勝つのはローマであったろうと。そのアレクサンダーを師に仰ぐハンニバルがアルプスを越える長征に挑み、連戦連勝を飾った当時のローマ連合はそれでも解体せず、退役した軍人や無産の市民までがこぞって反攻に立ち上がった。

 その先陣を切ったのがクイントゥス・ファビウス・マクシムス、のろまのファビウスと称される彼は堂々たる無為の作戦を決行する。ハンニバルの軍勢にぴたりとついて小競り合いこそしかけるが、会戦にも決戦にも訴えずに敵を壊滅もできないが味方に犠牲も出さない策を選んだのだ。だがハンニバルにとってこれほど嫌なことはない。彼が率いる50,000人ほどの軍勢で数十万を数えるローマを打倒するには、派手な勝利で連合を仲間割れさせるしかないのだ。
 ところがファビウスの消極策に耐えられなかったのはローマ自身である。略奪行を繰り返すハンニバル軍に決定的な勝利を得られずにいる状況に市民が激高、即時決戦を訴える執政官ヴァロに票を入れるとファビウスは解任されて、同僚エミリウス・パウルスとともに80,000人もの軍勢がカンネの野に集結した。これこそハンニバルが待ちに望んだ機会である。

 戦史上有名なカンネの会戦はハンニバルが完勝。ガリア傭兵隊を弓状にそらせる陣形で中央突破を図るローマの前進を食い止めたハンニバルは、両翼の騎兵に完全包囲させて二倍の敵を覆滅した。ローマ軍は死者60,000人に捕虜10,000人、執政官パウルスと80名の元老院議員も戦死したという。だがここには驚くべき事実がある。元老院の定員は300名、うち80名が戦死したということは少なくとも100名近い議員が最前線の戦いに参与しているのだ。国会議員の三分の一が武器を手に戦場に行くようなもので、ここに単純な軍国美談とは異なる彼らの名誉心が現れている。
 この敗戦でついに大都市カプアやヒエロン死後のシラクサがローマを離反、マケドニア王フィリッポスもハンニバルへの共闘を申し出る。苦境に立たされるローマだが反攻の意思はいささかも衰えずに新軍団を編成、今やローマの盾と呼ばれるファビウスの再登場にローマの剣と称されたマルケルスや解放奴隷の軍団を指揮するグラックス、ティチーノやトレビアで一敗地にまみれたスキピオもハンニバルの後背地スペインへの侵攻を試みる。中でも積極戦法を得意としたマルケルスはハンニバルをして、あの男は勝てば勇んで再戦を挑み、負ければ奮起して再戦を挑むとその執拗さで辟易させた。

 天才的な戦争の達人であるハンニバルに対して、抵抗するローマが用いたのは組織の力である。そしてそれを支えたのがどれほどの敗戦を喫しても最高司令官が罰せられることがない彼らの思想にあった。スペインに侵攻するスキピオはもちろん、カンネの敗将ヴァロですら軍団の編成と再出陣を命じられている。ローマ人が重んじる最高の徳のひとつが名誉であり、だからこそ彼らは恥辱を心から恐れた。恥辱による罰を受けるとそれを胸に再び戦場へと赴くローマ人にとって、死んでお詫びとか責任を取って辞任しろという輩は単なる恥知らずでしかないのだ。
 南イタリアを荒らしまわるハンニバルと反攻を続けるローマの戦いは膠着するが、荒廃する領土と増加する戦死者、度重なる戦費の徴発に耐えねばならないのはローマである。ハンニバルとて順風満帆ではなかったが、この状況が続けばローマの損害は更に深刻で甚大なものになっていただろう。

 その膠着を破るのは一人の青年の出現による。ティチーノやトレビアで父の敗走を助け、カンネでは戦死した執政官エミリウス・パウルスの下で従軍していた若きスキピオが父を継いでスペイン戦線に名乗り出てより、第二次ポエニ戦争は劇的な変化を迎える。
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