2009年03月05日
ポエニ戦争終結(歴史)
第二次ポエニ戦争で反攻に出たローマは、カルタゴの後背地スペインにスキピオ兄弟を送り込んでいた。彼らはハンニバルの弟ハスドルバルやマゴを相手に善戦していたが姦計にあって戦死、その翌年、父と叔父の仇討ちをすべく元老院を訪れたのが若干25歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオである。司令官の資格には15歳も足りない若者の主張に難色を見せる者も多かったが、家族主義を重んじるローマ人にとって仇討ちは特別な意味があった。
特例としてスペイン遠征を認められたスキピオは現地で軍団を再編、自分はユピテル神の子であると兵士たちに呼びかける。何を言っているんだと思うかもしれないがもともとローマの始祖ロムルスは軍神マルスの子でもある。「新カルタゴ」カルタヘーナに軍を進めたスキピオは海に囲われた天然の要害を前にするとユピテルの兄弟ネプチューンがあの水を減じてくれるだろうと宣言、自ら海に飛び込むと歩き出してしまった。ところが大将は沈むどころかどんどん先に進んでいく。他の兵士たちもこれに続けと海を横断、カルタヘーナを一気に落城させてしまったのである。
もちろんスキピオは汐の干満その他を利用しただけなのだが、拠点を失ったハスドルバルは軍を展開して小癪な若造を撃破すべく進軍、だがバクラの会戦で返り討ちにあってしまう。力で押すカルタゴ軍に対して伝統的な三列横隊陣を敷いたスキピオは、ベテランの第二列第三列を左右に広げると更にその左右に騎兵をまわして敵を五方向から包囲、これこそスキピオがトレビアやカンネで目の当たりにしたハンニバルの用兵そのものであった。敗走したハスドルバルは兄と合流するためにスペインを放棄するが、アルプスまで渡ったもののローマ軍団に捕捉されて戦死する。
スペインを平定したスキピオはローマへ戻るとカルタゴへの逆侵攻を提案、元老院では「ローマの盾」ファビウスらが猛烈に反対する。スペイン討伐であれば父の仇討ちで済むが、これ以上特例を許すことのできない元老院には当然の反応だ。野心家ではないが独断的で、ローマ古来の風習よりもお洒落なギリシア文化に傾倒する若いスキピオは元老院の旧守派に嫌われていた事情もある。
それでもスキピオは異例の31歳で執政官に任命されるとカンネの敗残兵を中心に新軍団を編成、再び北アフリカ侵攻を提案する。当時、マルケルスもグラックスもハンニバル相手に戦死していたこともあって、元老院も渋々これを了承した。こうして海を渡ったスキピオだが、ローマ的な正々堂々さを薬にもしたくない彼は交渉を匂わせてからの不意打ちでヌミディア王シュファクスを捕えると同国の王子マシニッサを即位させる。名だたるハンニバルのヌミディア騎兵を奪うとともに、もちろん自軍に編成する腹積もりだ。
のどくびに刃を立てられたカルタゴ政府はハンニバルを召還、16年に渡ってローマを震撼させた雷将は遂にイタリアを後にする。ハンニバル率いる50,000人の兵士と80頭の象に対して、その用兵を継承するスキピオは40,000人の軍勢を率いてザマの平原に対峙した。
紀元前202年10月19日、二人の名将が激突したザマの会戦は弟子が師匠を打ち破る結果に終わる。突進するハンニバルの戦象はスキピオが陣形を巧みにあやつってかわしてしまうと、スキピオの騎兵もハンニバルに誘い出されて戦場を離れてしまう。だが自軍の前衛をおとりにして主力の精鋭を送り込む算段でいたハンニバルに、一気に攻勢に出たスキピオがこれを前衛ごと打ち破って勝敗は決したのである。ハンニバルは帰還すると戦争の敗北を報告、カルタゴは降伏して賠償金や領土の放棄、人質の提供などを含む和平条約が結ばれた。
アフリカを制した者、アフリカヌスと呼ばれるようになったスキピオはハンニバルを敬愛していたし、ハンニバルもまたスキピオの才能を称賛していた。そのスキピオが使節となって結ばれた条約は厳しくはあっても道理に外れたものではない。ポエニ戦争は終結し、カルタゴは軍備こそ放棄したものの経済力は温存される。ハンニバルはカルタゴの有力議員として国の再建にあたり、地中海の西半分を手に入れたローマは大国の地位を磐石にした。
共和政ローマはここに興隆を極める。だがそれは共和政ローマの混迷がこの時期から始まるということでもあった。
>他の戯れ言を聞く