2009年03月11日
史料(歴史)
歴史に接する上で史料の存在は欠かせない。史料というのは歴史上の手がかりのことで、文献に限らず遺跡や遺構、当時の絵画や彫刻やコイン、伝承伝説なんかも含まれる。これらをもとにして過去を構築していくのが歴史という訳だ。
史料は一次史料と二次史料に分けられる。一次史料はその当時の文献や当事者が書いた手紙や日記、新聞や遺跡やコインなどが該当する。二次史料というのは一次史料をもとにして後代の人が作成したもののことで、例えば帝政ローマの歴史家リヴィウスが書いた「ローマ建国史」などは二次史料となる。とはいえ年代やテーマによってはこれを一次史料として扱う例もあるので、その線引きはあまり厳密なものではないだろう。
その他、やはり明確な分類とはいいがたいが、特に重要な史料を指して第一級史料と呼ぶ例もある。ユリウス・カエサルの「ガリア戦記」は戦争の当事者が記した史料として現在でも世界中で刊行されている。
とはいえこうした史料の正確さにはたびたび疑いを持たれるもので、特に文献や伝承にはその傾向が強い。プルタークの英雄伝では将軍マリウスが倒した10万人のゲルマン人の屍が肥料となり、その年は稀有の豊作になったとあるがこれを根拠に当時は豊作だった、といえるかどうかは微妙だろう。これを支えるのが遺跡や遺構の存在だが、別の例としてカプリ島に隠棲した暴君ティベリウスの記述として、スヴェトニウスの皇帝伝ではこう伝えている。
「彼の館は卑猥な絵画や彫像で溢れ、ティベリウスは子供たちに自分の股ぐらを泳がせて楽しんでいた」
今も残るカプリ島の館にはこうした絵画や彫像は見つかっていないから、たぶんスヴェトニウスの趣味だろう。ローマ時代の歴史家は共和政を賛美することあまりに多く、王や皇帝が嫌いだったことを忘れてはいけない。後世の学者はこのスヴェトニウスを種本にしたからティベリウスや皇帝ネロは暴君で定着しているが、最近の発掘調査では彼らが思いのほか政治にも外交にも優れた皇帝だったことが知られている。
歴史というのはこうしたサビを洗い落とすことでアンティキティラの歯車が見えてくる。古代ローマの文献には当時ですら共和政への幻想という分厚いフィルターがかかっていたし、啓蒙主義を経た現在になってもそれらが消えた訳ではないのだ。帝国による統治、奴隷制度、剣闘士競技、キリスト教徒の処刑。このうちの一つでも悪いことだと考える人はすでにそのフィルターを通してローマを見ることになってしまう。当時のキリスト教は今のキリスト教とは別物であったことには、たいてい誰もつっこまないものだ。
現代でもマスコミ発表を鵜呑みにする人はいるものだが、できれば2000年くらい後に同じニュースを読んでみたいと思う。さて悪いのは誰だろうか。
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