2009年03月19日


スキピオ裁判(歴史)

 自由の民ギリシア人の呼びかけに兵を出したシリア王アンティオコスを征討したのはかのスキピオ・アフリカヌスだが、実はそのときの司令官はスキピオの兄ルキウスだった。法律では司令官への再任は10年をあける必要があってスキピオを選ぶことができず、兄を司令官にすることになったのだ。ただでさえスキピオには特例ばかりを許していたし、元老院もこれ以上優遇できないというのが本音だったろう。

 ところがシリアを征討して帰還したルキウスをマルクス・ポルキウス・カトーが告発する。シリアから受け取った賠償金の額を報告しろというのだ。まったく道理にかなった要求だが、カトーの主張が賠償金を横領した疑惑を投げかけていることは子供にも分かる。そして告発した相手がルキウスであっても、指揮をとったのはスキピオだ。
 実際に賠償金の横領というか兵士への散財はあったらしいのだが、ザマの英雄に対するこの疑いに当のスキピオが怒ってしまった。ずかずかと元老院に姿を現したスキピオは兄の手から明細書をひったくると、議員たちの目の前で破り捨ててしまう。気持ちは分からなくもないがこれはいかにもまずい。ルキウスへの告発はスキピオの横暴を訴える裁判へと変わってしまった。

 これまでも若くして特例ばかりを認めさせていたスキピオだが、共和政ローマでそれが許されたのはハンニバルの危機があったからに他ならない。司令官を差し置いて戦争から王との講和まですべて独断で解決したスキピオに対して、独裁を疑う声が上がるようになった。
 スキピオは野心家ではなかったが実力にふさわしい称賛は求めた。だが共和政とは優れた将軍や偉大な政治家ではなく、そうした人々が集まった元老院や市民集会が人々を導いていく制度なのだ。さすが元老院議員だと言われるのはいいが、さすがスキピオだと言われてはいけない。後に名将ポンペイウスは「スキピオ・アフリカヌスの先例があるではないか」として多くの特例を自分に認めさせることになる。

 失望したスキピオは政治からも軍事からも身を引いて隠棲すると、ローマを離れた郊外で余生を終えることになる。自分が助けた祖国を遠望して恩知らずのローマを嘆いたというが、かつて第二次ポエニ戦争の渦中にファビウス・マクシムスが彼をたしなめた言葉があった。

「お若いの、ローマは英雄を必要としない国なのだよ」

 英雄スキピオにはその言葉に含まれている本当の意味が理解できなかったろう。かつて共和政初期の時代、蛮族退治のために独裁官に任命されたキンキナートゥスはわずか16日で任務を終えると、自ら辞任して畑を耕す生活に戻ったという。
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