2009年03月24日
カルタゴ滅亡(歴史)
かつて西地中海を我らが海としていたカルタゴは第一次ポエニ戦争でその資格を失い、ハンニバルがイタリアに攻め込んだ第二次ポエニ戦争も終結して多大な賠償金の支払いと軍備の放棄をしなければいけなくなった。それでもカルタゴは金持ちだったし、賠償金の一括前払いを提案してローマに断られたほどである。
ザマの会戦で降伏したカルタゴに対して、寛大なスキピオはハンニバルの引渡しを求めなかった。だが平民党の首領になったハンニバルの失脚を狙うカルタゴ議会は、彼がシリア王アンティオコスと組んで反乱を企てているとローマに進言する。ハンニバルはシリアに亡命、スキピオが討伐に派遣されたのはこの辺の事情もあった。
シリアの敗退に伴いかつての雷将はクレタやビティニアへ逃亡するが、遂に追い詰められると「老人が死ぬのを待てないローマを安心させてやろう」と手にした毒薬を呑んで自害する。時に紀元前183年、くしくも彼の好敵手スキピオが失意のまま世を去ったと同じ年だった。ハンニバルの陰謀が事実かどうかは今となっては分からないが、カルタゴ議会がかつてのタラントやギリシア諸市と同様に商人特有の身勝手さを持っていたのは確かだ。
きっかけは隣国ヌミディアの拡大である。第二次ポエニ戦争でスキピオに協力した国だが、これに対抗意識を持ったカルタゴは何を思ったか傭兵団を集め出す。もちろん明白すぎる条約違反だから怒ったローマは抗議するが、カルタゴは了承したふりをして使節が帰るとヌミディアに先制攻撃、しかも返り討ちにあってしまった。
カルタゴ人は嘘つきだとローマ人が言うのも無理はない。ローマは同盟国ヌミディアを守り、条約を破ったカルタゴを懲罰すべく第三次ポエニ戦争として軍勢を派遣するが勝敗は論じるまでもない。降伏するというカルタゴの願いにローマは聞く耳を持たず、首都の完全破壊を要求した。人としての信義を何よりも重んじるローマ人にとって、第一次第二次と二度も講和を無視されれば充分だ。
追い詰められたカルタゴは徹底抗戦を決意するがしょせん命数は尽きている。ローマ側の総司令官はザマの英雄スキピオの養孫で、マケドニアの勝者エミリウス・パウルスの子であるスキピオ・エミリアヌス(エミリウス家のスキピオ)。勇敢だが無意味な篭城戦は3年続くが紀元前146年、カルタゴは陥落すると全住民は奴隷に売られてしまい、瓦礫まで平らにならされた後に塩を撒かれてしまう。かのマルクス・ポルキウス・カトーはこのカルタゴを滅ぼすべきだと国をすっぱくして言い続けたが、彼の本音は大国カルタゴの脅威よりも信頼できぬカルタゴの身勝手さへの警告であったのかもしれない。
かの二大国、ギリシアとカルタゴはこうして滅亡した。どちらも多分に自業自得によってである。
>他の戯れ言を聞く