2009年03月31日
農地法(歴史)
退廃の予兆は軍団の弱体化となって現れた。他国から戦闘機械とまで呼ばれた、あのローマ軍団が弱くなったのだ。ローマの軍団兵は市民兵で、裕福な貴族や商人ほど多くの兵士を長い期間参加させねばならないが、それは同時に稼ぎの少ない低所得者層や無産階級は兵役の義務から免除されるということでもある。地主や金持ちこそ国に貢献しなさいというのがローマなのだ。
カルタゴやギリシアやアジアを制圧したローマは莫大な賠償金を受け取り、スペインの鉱山を手に入れて地中海の東に市場を拡大したからどんどん栄えていった。一方で貧しい人々は以前だったら畑を耕して牛でも追っていればよかったのに、広大な土地と多量の奴隷で経営される新興農場が進出してきたからたまらない。一家の主人が徴兵されたら稼ぎ手まで奪われて窮乏する、金がなくなれば金を借りて、返せなければ奴隷に売られてしまう。
ようするに貧富の差が急速に広がり、兵士になれる市民がどんどん減っていった。この時期のローマは領土も市場も拡大しているのに徴兵資格は下がる一方で、貧乏人を徴兵しないと兵士が足りず、それが貧乏人をもっと貧乏にするという悪循環が起こる。
これに待ったをかけようとしたのがティベリウス・センプローニウス・グラックス、有名なグラックス兄弟の兄である。スキピオ・アフリカヌスの娘コルネリアを母に持つ平民貴族で、姉の夫がスキピオ・エミリアヌスという血統書つきの家柄だ。このティベリウスが軍団兵の質の低下と農場が奴隷に占められている事実、無産階級が増大する社会問題に危機感を持ったのだ。
紀元前133年、護民官に当選したティベリウスは大土地経営を規制して無産市民を救済するセンプローニウス農地法を提出する。要約すれば一定面積を超える私有地は国が買い上げ、無産市民に貸し出しするというものだ。大地主である元老院議員はこれに反発、だが彼らが態度を硬化させた理由は元老院での反対を予想したティベリウスがこの法案を市民集会ではなく平民集会に提出したことだったろう。
紀元前287年のホルテンシウス法で、平民集会の決定も市民集会同様に認められていたからティベリウスの行動は間違ってはいない。だが元老院議員の土地を取り上げる法律を、彼らが投票できない平民集会で可決させようというのだから反発を買って当然だ。演説の名手であったティベリウスは切々と訴える。
「国を守るために、家を守るために、祖先の土地を守るために戦えと言う。だが君たちは守る土地を持っているか?土地どころか土くれさえも持っていない君たちなのに」
平民集会は農地法を支持するが護民官は二人いる。もう一人の護民官オクタヴィウスが元老院に懐柔されると拒否権を駆使してこれに対抗、思い切ったティベリウスはオクタヴィウスの不信任投票を行うと彼を解任してしまった。これも法的には誤っていないが平民集会はただ一人の護民官ティベリウスが主導することになってしまう。これでは独裁だと元老院は激怒するが、ティベリウスは任期切れに伴う護民官への異例の再選を狙って立候補したから確執は決定的なものとなった。
護民官選挙の当日、張り詰めた緊張の中で些細な小競り合いが起こる。危ないから頭を隠しなさいというティベリウスの身振りを王冠を求める仕草だと元老院が誤解したとも伝えられるが、首都ローマの秩序維持の責任は元老院にある。強硬派のスキピオ・ナシカ率いる一団は議席から折り取った鉄の棒を手に手に取るとこれを襲撃、ティベリウスとその支持者を殴り殺してしまった。
不可侵権を持つ護民官が現職のうちに殺されたこの事件はローマを驚倒させ、スキピオ・ナシカは追放される。センプローニウス農地法は推進者を失ってやがて形骸無実化していくが一定の成果を得ることはできたらしい。元老院もティベリウスのやり方には反発しても、彼が訴える危機の存在は認めていたのだ。
農地法はその後も共和政ローマの病となり混迷の原因となる。だがこの問題にはより大きな病巣が潜んでいることを、この時点では誰も気がついてはいなかった。
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