2009年04月02日


市民権法(歴史)

 ガイウス・センプローニウス・グラックスが護民官に就任したのは紀元前123年、9歳年上の兄ティベリウスが死んでから10年ほどが経っている。多少は元老院も警戒したかもしれないが、政治家としても軍人としても無難な活躍をしていたガイウスは度を越した注目も危険視もされていなかった。だがその彼が兄の構想を実現すべく、それまで隠忍していただけだったことはすぐに明らかになる。
 ガイウスは兄のように誰にも好かれるという類の人物ではなかったが、政治家としては一流で火を噴くような激しい弁舌と精励恪勤な勤勉さが売りだった。一年任期の護民官につくとさっそく改革派としての活動をはじめた彼は立て続けに法案を提出、成立させる。

 その大要は形骸無実化していたセンプローニウス農地法の再承認に始まり、貧民に食糧を安価で配給する小麦法や雇用振興策である公共事業法、徴兵制限を厳格にした軍政改革や貴族が独占していた裁判を商人に解放する陪審員改革など多岐に渡る。元老院は反発したが、早々に護民官の再選出を認める法を定め、平民どころか商人の支持も得ていたガイウスを失脚させるのは容易ではない。なによりガイウスの政策をローマが必要としていることは元老院も認めているのだ。

 分割して統治せよ。今更だがイタリア半島を同盟市や植民都市、属州などに分けるのはローマの統治政策の基本である。だが植民都市にはローマ市民が住んでいるが、同盟市には自治を認めているから市民権もないし農地だって買い上げることも貸すこともできない。農地法を進めようとしたガイウスは兄が直面せずにすんだこの問題に行き当たることになった。これを解決すべく提出されたのがセンプローニウス市民権法であり、イタリアの同盟市民を段階的にローマ市民にしようという法律だ。
 ところがそれまで一貫してガイウスを支持してきた平民集会がこの法には一転、反対の声を上げる。貴族の既得権を奪い続けた市民たちが、いざ自分たちの権利がイタリア中に拡大されるという段になって反発したのだ。拡大したローマを現在の市民権は吸収できない、だが市民権は拡大できない。この矛盾が後に火薬庫の火となるが、さしあたって元老院はこの状況を利用することに決める。ティベリウスの時と同様に護民官ドルーススを懐柔するが、今回は更に巧妙だった。

 精勤するガイウスが北アフリカ視察にローマを離れた、その間にドルーススは新しい法案を提出する。小麦をタダで配る新小麦法や、農地をタダで配る新農地法などだ。どこぞの国のような、財源の裏づけもない人気取り政策を平民集会はよろこんで支持したがもちろん元老院はそんなものを守るつもりはない。次期護民官選挙が近づくぎりぎりの時期に合わせて、ガイウスの支持を奪うことさえできればいいのだ。
 帰国したガイウスはローマの様子が一変したことに愕然とするが、よりショックを受けたのは彼の支持者たちだった。ガイウスは次期護民官選挙を落選、ドルーススの新法は言を左右にして実施されるそぶりもないどころか、新しい護民官がガイウスの法を白紙に戻す法案を提出する。もちろん農地法が白紙になればドルーススの新農地法も自動的に消えてしまう。ついに激発した市民が元老院派の一人を暴行、殺害してしまった。元老院にとってこれ以上の口実はない。

 緊急招集された元老院で秩序維持のための元老院最終勧告「セナートゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」が宣言されると、執政官にはガイウス・グラックスとその支持者たちを国賊として処断する権限が与えられた。逃亡するガイウスだが捕らえられそうになると忠実な奴隷に自分を殺すように言い、奴隷はガイウスを殺した後で自害した。ガイウスの首にはそれと同じ重さの金が懸賞としてかけられたので、発見者は首に鉛をつめて持ち帰ったという。勝利に沸く元老院は、兄弟の母コルネリアに喪服を着ることを禁じる法を決議した。

 農地法と市民権法、この二つがローマの深刻な病巣となり、ついには元老院最終勧告という共和政のガン細胞を生み出す。グラックス兄弟をきっかけに国体を無視して国政を定める手法が発明され、市民が裁判もなく殺害される前例が生み出されたが、それは法と市民権の双方が蹂躙されたということであり、共和政ローマの精神はこのとき失われたのである。
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