2009年04月14日


同盟者戦役(歴史)

 元老院に懐柔されてガイウス・グラックスを失脚させた、かの護民官ドルーススには息子がいた。このドルーススも護民官になったのだが父とは異なりガイウスの支持者だった。というよりガイウスが直面したローマの問題に彼ドルーススも直面していた。

 ローマの状況は相変わらずで、サトゥルニヌスのような強硬派の例もあるが金持ちから土地を買い上げて分配する農地法や、貧乏人の食を保障する小麦法は政争の具になりながらも続いていたし、マリウスの軍制改革によって戦時に限るとはいえ貧乏人には軍人になれる職業選択の自由も生まれていた。
 ところがかのサムニウム人ほかイタリアの諸都市のように、同盟者として自治を認められている人々にはローマの市民権がないからこうした恩恵が受けられない。しかもマリウスの改革で軍団兵は平等になっていたから、同盟市民も同じように働かされているのにローマ市民だけ給料がもらえて小麦が配られたり農地がもらえたりもする。そしてローマ市民は税金を払う必要はないが同盟市民は自分の自治市に税金を払っているのだ。分割して統治せよの政策が、このときは裏目に出たのである。

 これでは流石に不公平だと、護民官ドルーススはガイウスの掲げたイタリア住民全員への市民権の解放を提案するが元老院の反対に会ってしまう。だが彼らの真意は市民権拡大による財政への不安でもなければ既得権の侵害への抵抗でもなく、ポエニ戦争すら生き抜いたローマ連合の変革、国の変革が護民官によって為されることへの疑問にあったろう。SQPR、セナートゥス・ポプルス・クエ・ロマーヌスにおいて護民官はセナートゥスではなくあくまでポプルスに属しており、独裁官すら国体を変える権限だけは与えられなかったことを忘れてはいけない。
 議論は白熱し紛糾するが、護民官には平民集会で可決すれば元老院の意向を無視できるホルテンシウス法という切り札がある。ドルースス自身にそのつもりがなくともグラックス兄弟やサトゥルニヌスがその先例を示していた。混乱の中で過激派市民がドルーススに小刀を突き立てると、若い護民官は「ローマはいつ自分のような人物をもてるのか」とつぶやいて息絶えたという。

 この事件をきっかけにして不満が爆発した。紀元前89年、サムニウム人ら八つの部族が立ち上がると新国家イタリアの建国を宣言、後に同盟者戦役と呼ばれる内乱が勃発する。新国家の首都はローマ近郊のコルフィニウムで元老院から軍団までローマと同じ制度、ローマの象徴である狼を組み伏せる記念通貨まで鋳造して怪気炎を上げた。
 ローマは時の執政官ルーポとルキウス・ユリウス・カエサルが迎撃を担当、亡命していたマリウスも帰国して参戦、ユグルタ戦役の功労者スラも軍を率いて反乱軍に対抗する。ローマとイタリアの争いは激戦となって執政官ルーポが戦死、互いの手の内を知る者同士の戦いは数多くの犠牲を生み出したが元老院は二つのことを理解してもいた。一つは内乱の原因が市民権問題への対応にあったことと、もう一つは対策の必要性自体は元老院も認めていたということだ。

 翌紀元前90年、元老院はルキウスの提案によるユリウス市民権法を可決する。イタリアに在住する同盟市民たち全員にローマ市民権を与えるとする法律だ。これこそガイウス・グラックスやドルーススの掲げた悲願であり、反乱の目的が達せられたことによって振り上げた手の下ろしどころがなくなったイタリアは自然解体、2年を経ずして同盟者戦役は終結した。
 実際には市民権法の実施は段階的なもので、新市民と旧市民の投票区を分けたりと不平等な側面もあったが前進は前進である。イタリア半島のすべてが名実ともにローマになるまで、長い歳月はかからなかった。

 グラックス兄弟の死にはじまる100年ほどの時代を、後世の史家は内乱の一世紀と呼ぶ。内乱が終われば別の内乱が起こるというこの時代、富の格差から生まれた争いは市民権の有無による争いを導き、それが終結してもいまだローマの病根は残されたままで争いの火種は消えることがない。
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