2009年04月17日


首都制圧(歴史)

 紀元前89年の同盟者戦役で活躍した一人がルキウス・コルネリウス・スラ、かのユグルタ戦役ではマリウスの副官としてユグルタを捕縛した人物だ。コルネリウスという氏族名はスキピオでも有名な貴族階級に属していたが、貧乏貴族出身を公言するスラは剣闘士や娼婦や役者や詩人に囲まれて育ったといわれている。本当かどうかわからないが、当時のエリートの教養であったギリシア語を自分に貢がせていた娼婦に教わったという伝説もあるくらいだ。
 このスラがユグルタ戦役ではマウリタニアの王ボックスを説き伏せてユグルタを捕らえさせたのだが、その後もゲルマン撃退や同盟者戦役で戦功を重ねたスラは紀元前88年の執政官として東方ポントスの王、ミトリダテス六世討伐の司令官として選出された。

 国境の外にはもちろん他の国があるから、ローマが隣国と同盟を結んでも別に不思議はない。黒海沿岸にあるポントスもそうしたローマの同盟国の一つだったが、カルタゴのように屈服した従属国ではなかった。むしろ本来の同盟の意味である、友邦としての同盟国だがポントスの王ミトリダテスは実力も財力も、そして野心もある人物だった。
 このミトリダテスにとってイタリア半島を巻き込んだ同盟者戦役はこの上ないチャンスに見えたろう。内乱状態のローマに東に目を向ける余裕はないと、総勢30万といわれる軍勢を率いて周辺への侵攻を開始する。破竹の勢いで小アジアを制圧したミトリダテスはギリシア解放戦線を呼びかけると、アテネを代表とする「自由の民」ギリシア人はいつものようにローマに反旗を翻した。

 執政官スラが任命されたのはこのミトリダテス討伐とギリシア小アジアの再復である。ポントス軍はダーダネルス海峡を越えつつありすでに多くのローマ市民も犠牲になっていた。一刻も捨て置くことはできないと軍団編成を始めるスラだが、あろうことか時の護民官スルピチウス・ルフスがこれに異を唱えてマリウスを司令官に任命するという法案を提出、平民集会で可決してしまった。
 名声衰えたとはいえ未だ平民の支持が根強いマリウスを立てることにより、抱き合わせで自分の政策を通したかったのがルフスの目論見だったらしいがこの状況で政局のために総司令官が更迭される事態にスラは激高した。これでは首都ローマは政局の池を巡る遊戯の庭になってしまう。

 首都近郊、ノラに集結させた軍勢を従えたスラはローマに進軍する。まさか現職の執政官が首都を襲うなどと考えてもいなかった人々を一撃で粉砕すると、ルフスの首を切り落としてマリウスは辛うじて逃亡した。生首を前に、兵士を傍らに演説するスラはかかる無法の原因となった護民官と平民集会を弾劾するとマリウスとその一派を国賊とする決議を元老院に承認させて、あらためてミトリダテス討伐へと出立する。逃亡者マリウスは執拗な追跡を逃れてアフリカに身を隠していた。
 内乱の一世紀、新たな確執と争乱の火種は平民派と元老院派の対立を核として生まれたように見える。だがその内実ではローマの主権者であるSPQRがローマを混迷に落とし込む、共和政の矛盾が事態の原因となっていたのだ。だがその事実に気づいていたのは平民にも元老院にも依らない、無頼の貧乏貴族スラだけであった。
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