2009年04月30日
スラの改革(歴史)
ミトリダテスを討伐、ギリシアも鎮定されて首都ローマは歓呼にも安堵にも無縁だった。アテネに腰を据えているスラは平民集会と元老院が政局の中で解任した元司令官だから、彼の軍団は私兵でありローマの軍規に従う必要はない。平民派にして執政官たるキンナにはそのことが痛いほど分かっていただろう。
意を決したキンナはスラ討伐を決意、数万の大軍を召集するが気の毒なことに彼は軍団を率いたことがない。集めたはいいがその後どうすればいいか分からなかったのだ。集結した数万人の兵士たちは自分がどの部隊に所属してどこに並べばいいのかも、今日食べる物も寝る場所さえも分からない。あっという間に暴徒と化した彼らを鎮めるべく兵士の群れに入ったキンナはそのまま潰されてしまうという、歴史上にも類を見ない奇特な方法で死んでしまった。
キンナの死を伝え聞いたスラは軍勢を船に乗せるとローマに上陸、マリウスの遺児たちがこれを迎撃する。対するスラの軍勢にはポンペイウスやクラッススといったマリウスの虐殺を逃れた人々が集結して両軍は激突、2年に及ぶ戦闘の末に勝利したスラは遂にローマに入場した。元老院は屈服してスラを国賊とした決議は撤回、スラは反対派の大規模な粛清を行うと同時に内乱で失われた秩序を再建すべく、自ら任期無期限の独裁官に就任する。
政治的な意図に欠けるマリウスの復讐とは異なり、スラの粛清には政治的な意志があった。彼は平民も貴族も信用していなかったから、改革に有害な存在は平等に殺してしまうことに決めたのである。処罰者の名簿が作成されると、記載された数千の人々が遠慮も容赦もなく殺された。殺した人は殺された人の財産を褒美にするとも決めたから、夫を殺す妻や子を殺す親がたくさん生まれたとは信頼できる史料の記述である。
こんなスラが保守的な元老院派であった、とする歴史家は多いがこれはどうにも疑わしい。別に彼は元老院を信用してはいなかったし、ホルテンシウス法によってローマが分裂する状態こそ混迷の病根であると確信し、それを一枚岩に戻そうとしただけだろう。そして分裂を防ぐ最良の方法は人々を分裂させないことではなく、分裂した人々がなるべく同等で強権を持たないこと、つまり分権させることである。
スラはホルテンシウス法を撤回してすべての法案は元老院だけで承認されることにすると同時に、護民官の元老院入りを禁止する。労働組合出身者は管理職にはなれないというわけだ。一方で元老院の定数を300人から600人に倍増して新たに騎士階級を受け入れることにした。更に各役職には年齢の下限を設けて、執政官や護民官への10年以内の再任も禁止する。強力な個人が数人いれば分裂するかもしれないが、強力な個人が数百人いれば派閥が作れない。
貧乏人救済策の小麦法こそ廃止したが、停滞していた新都市建設事業を推進して雇用を確保すると同時に建設した土地に彼らを入植させる。改革が進む中で公共事業が再開されるようになり、スラ自身も自費で公文書館を建てるとローマに寄贈した。
こうしてローマを力ずくで再建したスラは紀元前79年、何の前触れもなく独裁官の辞任を宣言すると政治も軍事も手放して引退してしまう。突然の事態に唖然とする視線の中を友人を連れて歩き出したスラの背に悪罵の声が投げつけられた。スラは一瞥しただけでその者を黙らせると、「独裁官を辞任してほしくなかったのかな」と笑ってみせたものである。
スラの真意を問う声は多いが、あくまで彼自身は16日間で独裁官を辞して畑に戻ったというキンキナートゥスの心境であったろう。独裁官時代に出会った若い新妻ヴァレリアと、友人たちを連れて別荘に隠居したスラは2年ほどの余生を過ごした後で息を引き取った。死の寸前までその不適な表情は変わる素振りもなかったという。
いち私人として引退したスラだったが、彼の死が伝わると各地から集結した彼の兵士たちが哀悼のためにローマに入り、元老院は国葬を行うことを表明する。多くの敵も多くの味方もかえりみることがなかったスラだが、少なくとも彼が自ら名乗る「フェリックス」であったことだけはその盛大な葬列が証明していたことだろう。
>他の戯れ言を聞く