2009年05月20日
国民主権(歴史)
例えば日本という国では、国民主権と平和主義と基本的人権の尊重を国の三大原則にしている。だからこそ平和の解釈や人権に関わる口論が常々行われているのだが、少なくともこれのおかげで国益のためには人権を無視していいとかいった議論にはならない。原則というのはそういうもので、これを理解しないとその国が何を考えているのか分からなくなってしまう。たとえば古代ユダヤ人の原則は「神の国をつくること」だがこれを理解しない限り彼らの望みを絶対に理解することができないだろう。
ではローマはどうかといえばもちろんSPQR、元老院議員とローマ市民が主権を持つことである。つまり国民主権こそローマの基本原則という訳だ。これを実現するために彼らが選んだのが共和政だったが、それもグラックス兄弟の時代になれば主な票を元老院が持つ市民集会に対抗して、市民権さえあれば一人一票が認められる平民集会が力を持つようになっていく。
であればより公平でけっこうではないかといえばそうでもない。今から2000年も昔の時代、投票所はローマにしかないから市民権を持っていても投票所まで行く手段がない。なにしろ東はシリアから西はスペインまで地中海の全域に広がっているのがローマなのだ。東の果てでポントス王ミトリダテスが反乱を起こしているというのに、首都在住の貧乏人票を集めて司令官を解任できるのが当時のローマである。国民主権を広く認めるべく尽力したグラックス兄弟だが、それによって生まれた弊害に最初に気づいたのはスラだった。
グラックス兄弟は平民集会とホルテンシウス法を活用して、より民主的な改革を断行した。この場合の民主とはアテネの人々が創出したデモクラシーに起源を持つ、一票が公平に反映されやすい制度のことである。だが制度は公平でもローマがこれだけ広大になってしまうと公正に実施することはとてもできない。スラが求めたのは国政の主導を元老院に戻すと同時にその元老院を騎士階級にも開放することで、貴族と金持ちが国政を担当しながら平民の権利は護民官が守るべしという公正を重んじた制度である。形としては旧来の姿であるために、これを指してスラが保守的だったと勘違いされることも多い。
少数指導による寡頭制とも呼ばれる共和政だが、英語でリパブリックというこの言葉の語源はローマ人が国そのものを指すときに使った共同体という言葉、レス・プブリカに端を発する。現在でもデモクラティックとかリパブリカンといった言葉を使う政党は多いが、アテネ式やローマ式と手法は違えど彼らの主張する原則は国民主権に依拠しているのだ。グラックス兄弟に始まる内乱の一世紀だが、それは富の格差でもなければ市民権の有無でもなく、SPQRを実現する手法を問う争いだったのである。
民主主義の民主とは国「民主」権にルーツがある。残念なことにそれを理解している人は少ないようで、不思議なことに民主と称する政党同士が争う国すら存在している。
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