2009年05月25日


スラ体制の崩壊(歴史)

 ホルテンシウス法による、元老院と平民集会の分裂を防ごうとしたスラの改革は彼の死後10年も経たずに崩壊してしまうがその経緯をたどってみれば次のようになる。

 帰国したスラがローマ入りを果たしたのが紀元前82年、若き天才ポンペイウスらの活躍もあって旧マリウス派はそのほとんどが壊滅していたがセルトリウスという将軍だけはスペインに逃げて抵抗を続けていた。独裁官として改革を断行したスラは前79年に引退し、穏やかな老後を送ると翌紀元前78年に逝去する。たちまち執政官レピドゥスが反スラ派の追放解除やスラ改革の無効を提案、さすがに否決されると実力行使に出るべく挙兵するがポンペイウスに鎮圧されてしまう。
 未だ20代、元老院議員ですらないポンペイウスはスキピオ・アフリカヌスの前例があるとして、自ら軍を率いてのセルトリウス討伐を進言する。時に紀元前77年、若者の派遣を承認した元老院だが彼らにはスペインを鎮定する力がないということだ。

 紀元前75年、執政官アウレリウス・コッタにより人々の追放解除と護民官経験者の元老院入りが認められる。温厚でリベラルな貴族コッタにすればスラが死んで3年も経ったしいいだろうという訳だが、当時の元老院は穏当というよりも柔弱でスペイン鎮定をポンペイウスに任せているような有様だったから周辺ににらみをきかせることができない。前74年になるとミトリダテスが再び挙兵、前73年には有名なスパルタクスの乱が勃発する。相次ぐ外憂内患だがミトリダテスには名将ルクルスを派遣、ポンペイウスも前72年にスペインを平定するとスパルタクスの乱も前71年にはクラッススにより鎮定される。
 ところが帰国したポンペイウスが自分を執政官にしてくれと声を上げた。元老院議員でもないポンペイウスの執政官就任など認められたものではないが、クラッススが同調したから話はややこしくなる。若き天才ポンペイウスは平民に人気があり、ローマ一の金持ちクラッススは商人の支持を持っていた。貴族と金持ちが主導するスラ体制で、金持ちと平民が手を組んでしまったのである。

 紀元前70年、ポンペイウスとクラッススは執政官に就任する。そして金持ちと平民の支持を背景にして力すなわち票を手に入れるにはホルテンシウス法を復活させるしかない。スラの改革はこうして彼に従った人々の手によって実にあっさりと崩壊してしまったのである。貴族と金持ちが国を主導してローマの分裂を防ぐこと、そのために平民からホルテンシウス法を取り上げること、この二つをスラの後継者たちはまったく理解していなかったということだ。

 かつてアテネの黄金時代においてペリクレス一代の間、民主主義は完璧に運営された。スラ一代の間、共和政はその命脈を保つが彼の死とともに瓦解への道を歩む。歴史家という無責任な人々の多くは、スラの改革を失敗と断じる一方でペリクレスには称賛の声を惜しまない。
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