2009年06月01日


常勝将軍ルクルス(歴史)

 スラ門下の俊英の中でもその才腕を最も高く評価されていたのがルキウス・リキニウス・ルクルス。だが現代ではルクルスの名は度を越した豪華な食事や饗宴の象徴となっている。当時でも有名だったルクルスの食通は私邸に牧場や農園を構え、魚の養殖まで行っていたとされている。料理だけではなく部屋の装飾や奏でられる音楽、客人との会話まで含めたものが食事であるというルクルスは、一人の食事でさえも家人から簡素なものを出されれば「今日は私がルクルスを招いているというのに」と叱りつけたというほどだ。
 一度の食事が庶民の十年分の年収に匹敵したというルクルス式の食事はルネサンス期の絵画などでもその豪奢ぶりが伝えられているが、文化人にして植物学者でもあったルクルスは東方の貴重な書物や美術品を蒐集し、桜や杏をヨーロッパに移植し、私営の図書館を設営した歴史上で最初の人物とも言われている。だが美食家にして文化人で知られるルクルスが常勝将軍、無敵の司令官であったことを伝える史料はあまりにも少ない。

 スラの副官として第一次ミトリダテス戦争にも従軍したルクルスはスラが逝去した後、再挙兵したミトリダテスを討伐すべく第二次戦争に赴くと連戦連勝、わずか四年で当地を復興させることに成功した。ところがこの時期、東方での高利貸しによる荒稼ぎをしていたのはローマ人自身だったから、儲け口を失った彼らが怒って元老院に働きかけるとルクルスへの支援を打ち切らせてしまった。これをチャンスと見たミトリダテスは隣国アルメニアを味方につけると十二万五千の大軍を率いて進発、補給もないルクルスはわずか一万五千の軍勢で布陣する。アルメニアの王ティグラネスはローマ軍を前に嘲笑して、

「講和を求めるには威勢がよいが、戦争を挑むには何と見すぼらしい連中か」

 ところがこの戦いでローマ軍団が完勝、アルメニアの戦死者十万に対してルクルス側の犠牲者五人という史上前例のない結末に終わる。常勝将軍ルクルスはその後も勝ち続けて黒海を越えてカスピ海まで進軍、アレクサンダー以来の大遠征を実現させた。
 だが戦場では無敵、統治の才腕にも優れて芸術や文化にも造詣が深いルクルスは兵士には好かれていなかった。遠く離れたオリエントの地で十倍の敵と戦い続けたルクルスは戦費を現地調達しなければならず、略奪者の汚名を着せられると遂に一度も負けることのないまま撤退してしまう。元老院はポンペイウスを司令官として任命し、ルクルスの倍の兵士を与えて交替させた。

 失望して帰国すると戦利品を国庫に納め、部下に報奨を与えて自らは蒐集した美術品や工芸品、蔵書の数々を手に入れたルクルスは凱旋式を上げた後は元老院に議席を残したままで、事実上政界から引退して豪奢な生活を送る。時に紀元前66年、スラに心酔していたルクルスは自分を更迭してスラ体制を崩壊させた元老院の権威を守ろうなど考えることもできなかったろう。世はポンペイウスが台頭して共和政の堅持を図る元老院はこれを苦々しく思っていたが、そんなことはルクルスの知ったことではない。
 ルクルスの屋敷には多くの文化人が集うサロンが形成されるが十年ほどの安逸な暮らしを経た後で誰からも心酔されなかった男はひっそりとした最期を迎える。死に際してルクルスは自分の遺灰を敬愛するスラが眠るマルス広場の近くに葬ってくれるように遺したが、彼のささやかな願いを聞く者は誰もいなかったという。

 兵士に嫌われて金持ちには恨まれ、元老院によって更迭させられたローマの豪奢と堕落の象徴、それがルキウス・リキニウス・ルクルスである。
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