2009年06月05日


金持ちクラッスス(歴史)

 当時、ローマ一の資産家であり有力者として、富裕層の利益を代弁していたのがマルクス・リキニウス・クラッスス。有名なスパルタクスの乱を平定して天才ポンペイウスと共に執政官に就任、ホルテンシウス法を復活させてスラ体制の崩壊に手を貸した人物の一人である。もっともクラッスス自身にそんなつもりはなかったろうが、彼もまたスラの政治思想を理解していなかったことには変わりない。

 騎士階級から元老院に入った新興貴族のクラッススはマリウスの首都制圧時に父や家族を殺されて逃亡、スラの帰国に合わせてその幕下に参戦している。同時期に馳せ参じたポンペイウスほどではないが、クラッススも当時30歳前後の若い身でスラの勝利に貢献した。
 後にスラの改革と反対派の大規模な粛清が始まると、クラッススは没収された資産を安値で手に入れたと言われている。「クラッススの金儲け」は当時でも有名で、ローマで火事が起こるといち早くこれに駆けつけて延焼を防ぐために取り壊される土地や建物を買い叩いたのが彼だった。手に入れた多数の土地や鉱山を運営して、もともと富裕だったクラッススは今やローマ第一の金持ちとなっている。

 紀元前73年、有名なスパルタクスの乱が勃発した。ローマでの大規模な奴隷蜂起は前135年と前104年のシチリアでの反乱に続く三度目で、第三次奴隷戦争とも呼ばれている。もとはトラキアの傭兵で、戦争で捕虜になってからはカプアで剣闘士をしていたスパルタクスという男が仲間を連れて脱走、近隣の奴隷を糾合したその規模は70,000人にも達したという。
 ローマのお膝元イタリアでの反乱であり、派遣された鎮圧軍をスパルタクスが立て続けに撃破したこともあって状況は楽観できないものになる。勝利を機に北方アルプスを抜けて帰郷を図るスパルタクスだが、部下の反対でイタリアに戻ると周辺は略奪の犠牲になった。

 討伐軍司令官に指名されたクラッススだが勇んで進発するも敗退、一方で彼が対抗心を燃やすポンペイウスはスペインを平定しつつある。クラッススは敗走した兵士に厳罰を下すと軍団を増強して再び進軍、シチリアへの逃亡を図るスパルタクスの包囲に成功した。激戦の末にスパルタクスは戦死、街道には磔柱が立ち並んで反乱は鎮圧される。
 スッラ派の有力者でローマ第一の金持ち、騎士階級出身とはいえ執政官や法務官を出した一族であり軍功も遂げたクラッススだが、戦後処理をしたポンペイウスがスパルタクスの乱を終わらせたのは自分だと報告したから二人の関係は最悪のものとなった。そのポンペイウスが執政官への立候補を表明、クラッススも名乗りを上げるが市民や兵士に人気のあるポンペイウスに比べてクラッススには充分な票を集める自信がない。やむなく手を組むと紀元前70年に両者は執政官に就任、金持ちと平民の代表者が手を組んだことによってスラ体制は崩壊した。クラッススは自らの就任を祝ってローマ市民10,000人を食事に招待したという。

 富裕層の利益を代弁するクラッススの動向は貴族と金持ちが主導する秩序ある同盟に対して、金持ちと平民が台頭する自由主義的な風潮を加速させた。だがクラッススは自分がローマ第一の有力者だと信じていながら、自分の動向がローマにどのような影響を及ぼすかを理解してはいなかったろう。そのためにクラッススは後にカエサルやポンペイウスと並ぶ三頭政治の一角になることができたが、同時にそれが彼の身を滅ぼす原因ともなるのである。
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