2009年06月11日


偉大なるポンペイウス(歴史)

 ポンペイウス・マグヌス。偉大な者を意味するマグヌスの名を冠する、自らを偉大なるポンペイウスと称するこの人物こそ共和政末期のローマ帝国における最高の軍事的天才の一人であった。ローマ史への登場はクラッススとほぼ時を重ねており、騎士階級出の裕福な家に生まれるが父をマリウスの首都制圧時に失っている。スラの帰国に合わせてその幕下に参戦、自費で集めた三個軍団を率いてスラを喜ばせた。若干23歳、当時30歳前後のクラッススより更に若く瑞々しい容姿をした美青年だった。
 ポンペイウスはこの内戦で類まれなる才腕を示してシチリアを奪還、北アフリカに逃げたマリウス派の残党も壊滅させる。これを賞賛したスラは異例の凱旋式挙行を認めると若き天才をマグヌスと評し、スラの死後にはポンペイウス自身この名を用いるようになる。

 スラの逝去に合わせてレピドゥスがスラ改革の無効を掲げて挙兵するとポンペイウスはこれを撃破するが、その残党がスペインに逃れたこともあって当地の反乱を主導するセルトリウスの討伐に派遣される。未だ元老院議員ですらない若者はスキピオ・アフリカヌスの前例に倣い、現地の討伐軍総司令官メテルス・ピウスとの共同司令官という名目でスペインへと送られた。反乱軍も執拗に抵抗するがローマの優勢は動かず、セルトリウスが部下のペルペルナに殺されると瓦解するしかなかった。
 スペインを平定したポンペイウスはローマに帰国、当時第三次奴隷戦争はスパルタクスの死ですでに決着していたが、残敵を掃討したポンペイウスは自分が反乱を鎮定したと報告してクラッススの怒りを買う。あらゆる戦いに勝つポンペイウスにはあらゆる戦いは自分のおかげで勝利できたと思い込む性癖があったようだが、ともかく彼らは互いを嫌いながらも執政官に就任する。このとき陪審員制度を改革して貴族と騎士、平民を当分して裁判に当たらせたことが後に弁護士キケローが台頭するきっかけともなった。

 こうして金持ちと平民が力を得たローマで、当時問題になっていたのが海賊問題である。地中海全域に出没して交易や流通を阻害する海賊への抜本的な対策を施すため、平民集会はポンペイウスを総司令官にしての海賊一掃作戦を可決する。ちなみに海賊とは海で船を襲う連中のことではなく、陸地の根城から船を出して陸でも海でも襲う連中だからアジトを壊滅させない限り彼らを壊滅させることはできないのだ。大艦隊を指揮したポンペイウスは地中海の西の端から海賊の船を追い込み、しらみつぶしにアジトを制圧しながら東地中海になだれ込むとキリキアの根拠地を陥落、わずか3ヶ月で地中海から海賊を一掃してみせた。
 成功に意気上がる平民集会は彼らの英雄ポンペイウスを、ポントスやアルメニアと戦うルクルスに替えて東方に派遣にすることを決定する。ホルテンシウス法によって元老院を無視して総司令官を決めることも替えることもできる、スラ以前のローマに逆戻りした訳だ。第三次ミトリダテス戦争と称するこの戦いはルクルスによってすでに制覇された地域の戦後処理であり、目立った戦闘もなく当地を平定したポンペイウスは更にシリアのセレウコス王朝を解体してローマの属州にすると、内紛状態にあったユダヤにも介入してエルサレムを陥落、ほぼ地中海全域をローマの勢力圏に組み入れることに成功した。

 マリウス派を討伐して一度、スペインを鎮圧して二度、海賊討伐と東方平定を合わせて三度目の凱旋式を挙行したポンペイウスは今や並ぶ者とてないローマの英雄である。時に紀元前61年、45歳の誕生日を凱旋式の馬車で迎える天才の姿はまさしく「偉大なるポンペイウス」の名に相応しいものであったろう。
 だがスラが試みたローマの統合は果たされず、それが共和政ローマを更なる混迷に導くことになる。ここに及んで遂に明確な政治思想を掲げてローマを主導する人物が登場することになるが、残念なことにそれはルクルスでもクラッススでも、そして偉大なるポンペイウスでもなかった。
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