2009年06月23日


武器なき英雄(歴史)

 紀元前70年、執政官ポンペウイスとクラッススが提案した法の一つに陪審員改革がある。スラによって元老院議員の独占となっていた陪審員を貴族と騎士、平民で三等分しようというものだ。広大な地中海全域を治める首都ローマで行われる主な裁判は属州統治に関わるもので、もちろん被告のほとんどは元老院議員である。ポンペイウスやクラッススにすれば自分たちの支持基盤を強化する程度の思惑だったろうが、この改革によって弁護士が台頭するきっかけが生まれることになった。
 マルクス・トゥリウス・キケロー。政治家にして文筆家として現在でも多くの著作とともに知られている人物だ。地方出身の新参者で、弁護士として活動しながら財務官や造営官についていた彼を有名にしたのがシチリア属州総督ヴェレスの不正を訴えた裁判である。新たな陪審員制度の下で、属州民を勝訴に導いたキケローは一躍名声を得ると法務官から執政官へと就任する。時に紀元前63年、その執政官キケローの在任中に発覚したのが有名なカティリーナの陰謀だ。

 ルキウス・セルギウス・カティリーナもまたスラ幕下で活躍した人物で、放埓のせいか借金まみれの生活を送っていた。思い立ったカティリーナは借金全額帳消しという公約を掲げて執政官に立候補するが、そんなものを認めたが最後社会も経済も崩壊してしまう。貴族と金持ちは協力してカティリーナに対抗し、秩序のための同盟と称して当選を果たしたのがキケローである。
 落選したカティリーナはクーデターを画策するが事前に看破されると共謀者は処刑、ガイウス・グラックスやサトゥルニヌス以来となる元老院最終勧告が発令されて、カティリーナは彼を支持する三千名の兵士とともに玉砕した。軍団経験もなく、弁舌によってローマを救済したキケローには「祖国の父」の称号が与えられる。

 このときキケローが三日に渡って演説したといわれるカティリーナ弾劾は出版されて現在でも世界中で読まれているが、シェイクスピアにも勝る荘厳な文体と自己陶酔的なまでの舌鋒が実にキケローらしい。

「いったいどこまで、カティリーナよ、われわれの忍耐につけ込むつもりだ。その狂気じみたおまえの行動が、いつまでわれわれを翻弄できようか・・・」

 有名な冒頭の句を聞いたことのある人もいるだろうが、野心家であり虚栄家でもあったキケローは圧倒的なほどに美麗な文章で敵を罵り、自分を賛美してみせる。あるいは遠慮も羞恥心も感じられない演説に苦笑して辟易する者もいたかもしれないが、心からローマを救おうとするキケローの言葉には否定しようのない迫力があった。

 後世、ルネサンスからフランス啓蒙主義、フランス革命を経てキケローの著作は知識人の必読書でありその思想はフランスを中心にした民主主義の象徴とされている。武器なき英雄の思想こそ国民主権を体現するにふさわしいと考えられたのだ。ところがフランスに対抗する近代ドイツの歴史家は自分たちがルネサンスを体験していなかったこともあって、ルネサンスの象徴であったキケローに批判の矢を向ける。そのドイツにテオドール・モムゼンという、歴史家としてノーベル文学賞を受賞するほどの偉人が現れるとキケローに対する組織的な批判が頂点に達してしまった。
 歴史などまるで知らないがノーベル賞にはすこぶる弱いという、ごく普通の人々は盲目的にモムゼンを信じるあまりキケローへの評価を見失ってしまう。それでもヨーロッパにはルネサンス期の記憶が残されていたし、大戦後にドイツ的な思想から離れることにも抵抗感は少なかったろう。

 海の向こうのこととて、モムゼンの思想から未だに抜け出すことのできていない国ではこの偉大な歴史家が称賛するユリウス・カエサルに比べてキケローへの評価は完全に欠落している。だが古代ローマを主導する思想は互いに友人同士でもあったこの二人の人物、カエサルとキケローによって体現され受け継がれていくことになるのである。
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