2009年07月03日
カエサル前史(歴史)
ジュリアス・シーザーの名で知られるガイウス・ユリウス・カエサル。元老院が主導する共和政ローマを打倒して帝政の礎を築いた人物であり、カエサルの名はカイザーの語源に、彼の誕生月である七月は今でもジュリアスの月、ジュライと呼ばれている。「来た、見た、勝った」や「賽は投げられた」などの言葉でも知られる、ローマ史の主人公カエサルとはどのような人物であったろうか。
ユリウス一門は古来からの有力家門だったが、同盟者戦役の折にユリウス市民権法を可決させた叔父ルキウス・ユリウス・カエサルを除けばさほど有名な人は出ていない。マリウスの義理の弟を父に、名門貴族アウレリウス・コッタの娘アウレリアを母に持っていた。母は幼い息子の家庭教師に、名高いギリシア人ではなく蛮族出身のガリア人を採用している。後に広大なガリアを征服するカエサルはこのときにガリア人の性質を学んだのだとも、ガリア人教師にさんざ躾けられたのでその意趣返しをしたのだとも言われている。
生前の総司令官姿や死後に神格化された肖像とは別に若い頃の像まであるが、いくつかの美化されたっぽい彫刻を除けば頭が大きく額が広く口が大きいといった風貌で、間違っても美男子と呼べる類ではない。馬を御すのが得意で、あぶみの無い時代に両手を頭の後ろにまわして乗ることさえできた。後年、ガリア戦記をものする文筆の才も若い頃にはそうでもなかったらしく、うまくもない恋愛詩を数篇書いたらしい。若い当時から恋愛の達人で、多くの女性をモノにしたから悪評の的だったが妻であれ愛人であれ、別れた後でも平然と付き合ったしそれを隠そうともしなかった。
マリウスの首都制圧の時に叔父ルキウスを殺されており、マリウスが死んだ翌年に父も逝去したので若いカエサルはカエサル家の当主となる。大規模な粛清と殺戮の記憶が残るローマで、民衆派のキンナは元老院を懐柔するためか自分の娘を若いカエサルに嫁がせていた。
名門貴族の出自とはいえマリウスの甥でキンナの娘婿となったカエサルが民衆派と目されたのは自然の流れだったろう。スラが帰還するとあやうく粛清されるところだったが、まだ二十歳にもなっていないカエサル家の当主を殺して家門を潰すのは剣呑だとして多くの人にとりなされた。スラもこれを了承したがキンナの娘との結婚は破談にするよう要求する。ところが当時からプレイボーイとして有名だった若者はこれを拒否、怒ったスラから逃げ出したカエサルはオリエントを転々としてほとぼりが冷めるのを待つことになる。カエサルの真意については諸説あるが、兵士と女を裏切らないのが生涯を通じてのユリウス・カエサルという男だった。
亡命先のビテュニアでは王の寵童をして「ビテュニアの女王」と渾名され、エーゲ海で海賊に捕まった時は身代金を要求する彼らにカエサルにはもっと高い値を要求しろと言い、その通りに支払わせると自ら海軍を率いて急襲、金を取り返して海賊たちを磔にしたそうだ。この横柄な人質は自分が捕まっている間、海賊に詩を聞かせては風流の分からない阿呆どもと罵ったり身代金が届いたらお前たちを磔にしてやるぞと冗談を言っていたという。
これらの話がどこまで真実か、史料を見るだけでは判断のしようがない。偉人や英雄どころか放埓な若者にしか見えない、カエサルの政治活動は逃亡や亡命、留学から帰国を経て紀元前69年に就任した財務官を機にようやくといった感じで始まる。有名な女たらしであり、莫大な借金に追われていることでしか知られていなかったカエサルを問題視する者は誰もいなかったが、生前のスラがかつて若いカエサルの処罰を取り消す際、元老院に居並ぶ人々に向けて語ったといわれる言葉がある。
「君たちは分かっていないようだ。あの若い洒落者が君たちを滅ぼすだろうに」
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