2009年08月07日
ガリア戦役3(歴史)
カエサル以前から定住と農耕民族化が少しずつ進んでいたガリアにとって、不安定化の要因は三つあった。一つは旱魃や部族同士の対立等によるガリア内部の騒乱、一つはライン川の向こうからウホウホ襲ってくるゲルマン人、もう一つはドーヴァー海峡の向こうからウホウホ襲ってくるブリトン人である。強い弱いの問題ではなく、ウホウホと畑を耕す農民にウホウホと盗賊団が襲い掛かってくれば畑を荒らされて困るのは農民なのだ。もともとガリアは広々とした平地だから農業にも略奪にも向いている。
発端はライン川の向こうに暮らすゲルマンの小部族がまたまたガリアに侵入したことだった。川向こうに帰りなさいと交渉の席を設けたカエサルだがなんといっても相手は蛮人、話し合いの最中に石を投げ始めたからこれは実力行使しかないと考える。前代未聞の大工事に司令官自ら熱中したという、ライン川を渡る長大な橋を建設したカエサルはゲルマニアへ侵攻、いくつかの部族を襲撃して追い払ってしまう。
こうしてガリアに戻ったカエサルだが、ゲルマン人は海を越えてブリトン人とも連絡を取り合っている。ゲルマニア遠征が早い時節に終わったこともあって、艦隊を用意したカエサルはそのままドーヴァー海峡越えを決行することにした。ローマ人の末裔を自任するイギリス人曰く、大英帝国の偉大なる一歩となるカエサルのブリタンニア遠征である。上陸するローマ軍団に対して裸にペイントという英国紳士スタイルで襲い掛かるブリトン人だが、カエサルはこれを撃破すると翌年ブリタンニアへ再侵攻、ローマの損害は荒れる海で壊れた船のほうが大きいという程度だった。
ゲルマニアとブリタンニアを制圧してガリアに帰ったカエサルは、冬が近づいていたこともあって軍団を各地に冬営させると自身は属州統治のために南に戻る。神出鬼没と呼ばれたカエサルはガリア全域を網羅する伝令網を構築し、自分がどこにいても指令と報告が届くようにしたがあくまで任地は南仏プロバンスと北部イタリアだった。
ところがカエサル不在のこの機を狙って大規模な反乱が起こる。あちこちの冬営地が襲撃されて、中でもエブロネス族の族長アンビオリクスに誘い出されたサビヌスとコッタは軍団ごと壊滅させられた。急報を受けたカエサルは各地の軍団を集結させながら強行軍でガリアに向かう。弟キケローは数千人で守る冬営地を数万のガリア人に襲われるが、誰一人傷を負わぬ者はいなかったという奮闘の末についに援軍到着、洒落者のカエサルが髪も整えず髭もそらずに駆けつけた姿に兵士も感激したという。
こうして戦況は一変。エブロネス族は撃退されてアンビオリクスは逃亡、ゲルマン人に援軍を求めていたトレヴェリ族も別働隊の副官ラビエヌスに撃破された。ゲルマン人のガリアへの介入を防ぐためにカエサルは再びライン渡河を決行し、川向こうの一帯を制圧して騒乱は鎮定された。
時に紀元前53年。だがこの年、属州総督としてパルティアに侵攻していたクラッススがカエサル下から送り出されていた息子クラッススともども戦死する。更にこの前年にはポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが死去しており、三頭政治はその実体を失うことになった。
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