2009年08月17日


パルティアン・ショット(歴史)

 金持ちクラッススが東方パルティアに遠征した理由は名誉欲にあったといわれている。偉大なるポンペイウスはもちろん、ガリア戦役で名声を高めつつあるカエサルに比べてクラッススにはかのスパルタクスの乱を鎮圧して以来軍事的な実績がなかった。騎士階級の代表者としてはこの際、東方の交易路を守るためにローマの優位性をパルティアに印象づけるという目的もあったかもしれない。

 ルッカ会談を経て紀元前55年に執政官に就任していたクラッススは、任期が終わる前にすでに翌年からの管轄となるシリアへと移動していた。ガリアで活躍していたプブリウス、若きクラッススもカエサルに譲られた騎兵を率いて父の下に参戦する。友邦国アルメニアの助けを得て軍勢を集結させるクラッススに対して、パルティア王オロデス二世はスレナスという人物に迎撃を命じる。王に戴冠する役目を負う有力貴族の当主で、未だ三十歳前後という少壮気鋭の将軍だった。
 五万の歩兵を率いて進軍するクラッススにスレナスの手勢はわずか一万、政争に明け暮れて兵に余裕がなかったパルティアは歩兵をアルメニアへ、スレナス率いる騎兵をローマ軍団に当てることにする。五倍の敵を相手にすることになったスレナスは無謀な決戦を挑まず、クラッススが慣れない砂漠を横断しようとするのを待つことにした。

 砂漠の方々にはアレクサンダー大王以来、ギリシア人が建設したオアシスがあるがどれも軍勢が駐留できる規模はない。道に迷う心配こそなくとも、どこでも休んだり補給をするというわけにはいかないのだ。そうした砂漠のルートの途中、カルラエと呼ばれる場所でスレナスの軍が襲い掛かった。後世からパルティアン・ショットと呼ばれることになる、騎兵による一撃離脱戦法である。

 密集して防御陣形を敷いたクラッススの目算は過去のパルティア戦に倣い、相手が弓を打ち尽くしたら反撃しようというものだった。ところが充分な騎兵を用意できなかったスレナスは馬の代わりにラクダ部隊を従軍させる。このラクダは戦いには使えないが、多量の矢を運ばせることができた。交替で弓を撃ち尽くしたパルティア兵はラクダ隊のところへ行くと、矢筒を手に再び戦場に戻るのである。
 いつまで待っても降り注ぐ矢は治まらない。業を煮やしているとようやく相手が後退して、奮い立ったクラッススは散開して追撃するがパルティアは反転して再び矢の雨を降らせる。だまされたと足を止めたローマ軍が矢を防ぐために集結すると、わずか一千ほどの虎の子の重騎兵が突撃してこれをかきまわす。騎兵を追えば弓に無防備となり、矢を防げば騎兵が飛び込んでくる。それでもローマ兵の大盾や頑丈な兜は降り注ぐ矢や騎兵の突進を防いだが、重装備で砂漠を駆けまわった彼らは疲労と熱射病でばたばたと倒れてしまった。

 ようやく日没となるがローマ軍はすでに疲労困憊の状態にある。撤退するクラッススに満を持してスレナスが総攻撃、若いプブリウスは戦死して槍先に掲げられた息子の首に、絶望した司令官は自ら命を断ったという。カルラエの戦いはローマの歴史的な敗北として数えられ、アルメニアも陥落してスレナスは英雄として凱旋した。もしもスレナスの名声を嫉妬したオロデス二世が彼を粛清していなかったら、ローマの東方戦線はより危機を迎えていただろう。
 敗残兵を率いたのはクラッススの部下であったカシウス・ロンギヌスで、撤退したカシウスは兵士をまとめると国境シリアを堅守した。カシウスの守りによりオリエントの混乱は防がれるが、このカシウスが後にカエサル暗殺の首謀者となることもあってその評価は分かれることが多く、敗残兵を率いての撤退も後の裏切り者カシウスがこのときもクラッススを見捨てたのだという意見もなくはない。

 カルラエの不名誉は後に繰り返されるパルティアとの、やがてはペルシアとの戦いの端緒となる。だが歴史的な影響としてはもう一つ、この戦いでパルティアの掲げた絹織りの旗が陽光に輝く様子が伝えられると、後にシルクロードが地中海まで伸ばされるきっかけとなった。
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