2009年08月25日
ガリア戦役4(歴史)
紀元前53年にパルティアとの戦いに敗れたクラッススが戦死、ローマではミロの院外団がクロディウスをついに暗殺してしまい、殉教者扱いされた護民官に平民がいきり立つという状態になっていたから、スペイン属州総督に就任していたポンペイウスが首都に残留して治安維持に当たっていた。
ガリアではカエサルに対する最後の抵抗が行われようとしていた。その中心人物となったのがウェルキンゲトリクス、当時20歳前後の若きガリアの英雄である。紀元前52年、オーベルニュ族の青年は反ローマを掲げて決起すると強硬な手腕でガリア諸部族をまとめあげる。諸部族から人質を取りローマ人を虐殺して、町や村を焼き払いながら大規模なゲリラ戦を展開した。無敵のローマ軍団に直接対決を挑むのではなく、兵站を破壊しようという腹積もりだ。
カエサルは急ぎ兵士を集めると補給が厳しい事情を承知の上で進軍、ガリア人が立てこもるブールジュの町を攻略する。ウェルキンゲトリクスは物資の豊富なこの町を取られないように破壊しろと主張していたが、城壁も堅牢だし大丈夫だという嘆願を受けてしぶしぶ見逃していた。とはいえ相手はライン川に橋をかけるカエサルであり、移動する回廊や砦を建設すると総攻撃で町を陥落させてしまう。これでカエサルは当面の物資や食糧を確保することができた。
勢いづいたカエサルは一気にオーヴェルニュ族の主邑、ゲルゴウィアを目指すがウェルキンゲトリクスも抵抗、損害を無視できなくなったカエサルは退却せざるを得ない。不敗のカエサルを撃退した若者にガリアの諸部族が集結、ガリア騎兵にまで離反されたローマ軍はゲルマン人を補充して戦力を再編する。再び北上するローマ軍に勝利を疑わないウェルキンゲトリクスは追撃、だがゲルマン騎兵の活躍に自軍の騎兵の優位を活かせず敗退すると要塞都市アレシアへと逃げ込んだ。
有名な決戦の地、アレシアの正確な場所は現在でも不明だが、ナポレオン三世の調査以降フランスのアリーズ=サント=レーヌがその場所ではないかと言われている。二本の川に挟まれた丘の上に建つアレシアを前にカエサルは長大な塁壁を築いてこれを包囲、ウェルキンゲトリクスの消耗を図る。
二重に建築されたカエサルの包囲網は高さ4メートルの塁壁が内側総延長18キロメートル、外側は21キロメートルの長さに及ぶ。塁壁の外には深い壕や落とし穴が掘られて逆トゲや杭が打ち込まれた。六万の兵と三十日分の食料を集めて二本の塁壁の間、細い空間に陣を敷いてアレシアからの脱出と外からの救援の双方を妨害しようというのである。カエサル自ら記したガリア戦記によれば、ウェルキンゲトリクスの軍勢はガリアの援軍と合わせて三十万。
ウェルキンゲトリクスは援軍を待って攻撃開始、外と内の双方から攻め立てるが日没まで攻めてもカエサルの塁壁にたどり着くことすらできない。なにしろ足下に埋められている無数の鉄クギや逆トゲを越え、降り注ぐ矢をかいくぐって水の満たされた深い壕を渡らなければならないのだ。夜襲を仕掛けてようやく土塁に到達したものの、高くそびえる壁を登る前にカエサル旗下のアントニウスとトレボニウスが率いる騎兵に後ろから突き落とされてしまう。ちなみにこのアントニウス、後にクレオパトラとの情愛で有名になるアントニーである。
ローマ軍の食料は潤沢とはいえないがアレシアはもっと苦しい。北西の包囲が最も薄いと見たガリア側は内からウェルキンゲトリクス、外からは従兄弟のウェルカシウェラヌスが北西と南西の二箇所それぞれに襲い掛かる。カエサルは副官ラビエヌスを援軍に向けるとデキムス・ブルータスらに出撃を指示、自らも総司令官の赤いマントをなびかせて出陣した。騎兵を駆使するカエサルは塁壁の内側にいることで素早く前線に駆けつけることができる。カエサルの姿を見つけたウェルカシウェラヌスがこれを追って誘き出されたところで、ブルータスやファビウスが背後に回りこむとラビエヌスが挟み撃ちにする。この攻撃でウェルカシウェラヌスは捕まってガリア援軍は撤退、ウェルキンゲトリクスもアレシアに引き上げた後に降伏した。カエサル曰く、あと一日過ぎればやられていたと記している。
降伏したウェルキンゲトリクスはローマに連行されると後に処刑され、捕虜の一部は奴隷に売られるが他の者に厳罰は下されず反乱した部族もそのまま暮らすことになった。ガリアはようやく平定して、近代ヨーロッパの礎を築く「侵略戦争」はここに成し遂げられたのである。
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