2009年09月28日


内乱(歴史)

 カエサル自身の筆による「ガリア戦記」がガリアでの戦役の様子を現代まで伝えているのと同様に、ルビコン川を越えてからのローマの内乱の記録もカエサルの「内乱記」に記されている。いずれも市民に対するプロパガンダの目的があったと言われているが、人に伝えるからには虚偽ではなく事実を用いるべきだとカエサルは考えていたらしくその記述は信頼されている。

 野心ではなく自分の名誉を守るため、というカエサルの主張には彼と苦楽をともにした部下の名誉を守るためという意味もあった。そして市民に対しては元老院が振りかざした、元老院最終勧告なる代物こそ不法な暴力手段であるというのがカエサルの大義名分である。生命と財産の保障はSPQRに与えられた権利であり、ローマ市民が裁判なく死刑にさせられることはない。とはいえもしも元老院最終勧告が発令されていなかったら、カエサルが内乱に踏み切ることがなかったかどうかは分からない。
 仮定はともかく、子飼いの第十軍団を率いてローマへと南下するカエサルに対してポンペイウスは首都脱出を決意する。これに従って強硬派のカトーをはじめとする元老院議員もイタリア半島を南へ南へと逃げ出した。首都に残る者は敵とみなすというのが元老院派の宣告だが、中立な者は私の味方だと公言するカエサルの言もあって市民はガリアを征服した有名な反逆者に門戸を開いて歓迎する。

 内乱を憂慮したキケローは首都を少し離れた別荘に隠棲する。カエサルはこのキケロー宅を自ら訪問すると、首都に来てポンペイウスとの間を取り持って欲しいと懇請した。元老院議員は全員が逃げた訳ではなく、残された人々を導くのは「国家の父」キケローしかいないというのだ。カエサルの思惑はキケローを自派につけることにもあったろうが、キケローは首都に行けば君に不利な行動をとるだろうと謝絶するとカエサルも渋々引き上げる。
 結局は中立を保持させたカエサルの思惑通りであった、とする意見もあるが彼らの言行は心からの本心だったろう。キケローが元老院を主導して内乱を回避する、最後までカエサルはその可能性に賭けていたしキケローはそれを認めながらもカエサルのルビコン渡河を承服できない。彼らは年来の友人同士であり、発言の裏を見透かされて不思議はない関係だ。

 カエサルはイタリア半島の南端、ブリンディシに到着すると港の封鎖を試みるがポンペイウスは船団を率いて脱出に成功、自らの軍勢が待つギリシアへと渡る。カエサルは一度ローマに戻ると無理やり国庫をこじ開けて、ガリア戦役で得た資金を納めると同時にこれからの軍資金をごっそり引き出す。国庫にも軍団にも金は必要で、不要な金は使わないが必要なら遠慮しないというカエサルらしい行動だ。

 手際よく首都の治安を回復したカエサルは、軍勢を分けて元老院派が構えるスペインや北アフリカへの制圧行に乗り出す。キケローは結局出立してポンペイウスの陣営に身を投じたが、その後スペインで苦境にあったカエサルを見て日和見しただけだと、その変節が非難されただけだった。だがキケローはもともと自分がカエサル派とも元老院派とも思っていなかったろう。ポンペイウスのローマ脱出をこう評しながら、カエサルを支持できなかったのがキケローなのである。

「なんということだ、敵を許すカエサルに味方を捨てるポンペイウスよ」

 この期に及んでも内乱を憂慮していたのはカエサルとキケローの二人だけだった。それが不可避となったときはじめてカエサルはポンペイウスとの対決を決意し、キケローはカエサルの支配するローマから離れることを決意したのである。
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