2009年10月05日


カエサルvsポンペイウス(歴史)

 首都を脱出し、キケローに味方を捨てると嘆かれたポンペイウスだが彼の立場にすれば当然だったろう。ガリア戦役の10年近くを最前線で戦っていたカエサルの軍団兵に対して、その間ポンペイウスは首都にいて戦争らしい戦争をしていない。戦いの前に訓練の必要あり、として自らの支持基盤であるギリシアに入るとスペインや北アフリカにも軍勢を集結させてイタリア半島を包囲する構えを見せた。偉大なるポンペイウスは地中海全域を視野に入れて戦うのだ。

 ルビコンを渡って二ヶ月後となる紀元前49年3月、ローマを出立したカエサルはポンペイウスの後背地スペインを抑えるべく軍勢を西へ向ける。「まずは将軍なき軍隊に向かい、その後で軍隊なき将軍に向かおう」とはカエサルの言葉だが、それは裏返せば将軍としてのポンペイウスの実力を認めている証でもあった。
 途上、反抗するマルセーユに対ガリア海戦で活躍したデキムス・ブルータスを残したカエサルはピレネー山脈を越えてスペインはイレルダの町に入る。町を包囲したカエサルは大雨と洪水に苦戦するが、橋が流されて食料が不足したくらいではカエサルの兵士は逃げ出さない。根負けしてイレルダを放棄したのはむしろ元老院側で、カエサルはこれらの軍団を降伏させると兵士は帰郷させて元老院派の将軍は解放、ポンペイウスが待つギリシアへと送り出した。

 内乱だからこそ不要な血を流さず、犠牲を最小限にとどめるのがカエサルの腹積もりである。マルセーユでも海戦を制したデキムス・ブルータスが勝利を収めており、西方を制圧したカエサルはいったんローマに帰還する。とはいえ北アフリカではヌミディア王ユバの助けを得た元老院派が奮戦して騎兵と象に圧倒された若い指揮官クリオが戦死、軍勢のほとんどを壊滅させられていた。戦局は互角、資金や軍勢ではポンペイウスが有利だったかもしれないが、カエサルとしては東西からポンペイウスに攻め込まれる危険は脱したことになる。
 翌紀元前48年、執政官に選出されたカエサルは北アフリカをひとまず置いてギリシアへ出立、ポンペイウスとの直接対決を図る。「ユリウスとカエサルの年」に苦渋を舐めたあのビブルスらが妨害する中、苦労してアドリア海を渡航したカエサルはポンペイウス自身が居を構えるギリシア西岸、デュラキウムの町を包囲した。長大な塁壁を築いてデュラキウムを囲おうとする両軍、囲碁を思わせる陣取り合戦を制して防衛でも補給でも優位を得たのはポンペイウスである。だが腹をすかせたカエサルの兵士は地面を掘って野生のイモを見つけると、それでパンを焼いたのでポンペイウスは「これから私は獣と戦うのか」と、相手のしぶとさに呆れたほどだった。カエサルはポンペイウスの指揮を恐れていたが、ポンペイウスはカエサルの兵士を恐れている。

 洪水でも食料がなくても戦うカエサルの兵士を相手にポンペイウスは出撃を試みるが、それは戦争の天才、偉大なるポンペイウスが戦いに乗り出すことでもある。それまでの小競り合いですでに塁壁の状況を知悉していたポンペイウス・マグヌスはまず工事が遅れていた一角に戦力を集中させた。これは辛うじて迎撃されるが本番はその後である。三つの軍で三箇所に同時攻勢をかけたポンペイウスはカエサルが反応するや、先の工事が遅れていた箇所を含めた三箇所に対して更に別の三軍で突撃を仕掛けた。軍勢を六つに分けて更に相手の弱点を突いてきたのである。
 さしものカエサルも耐え切れずに撤退、スペインの敗勢を北アフリカとギリシアで挽回したポンペイウスは勢いを取り戻す。だがカエサルが撤退しただけで敗北した訳ではないことはポンペイウスも心得ており、地中海全域に及ぶ両雄の激突は決戦への機運を高めつつあった。
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