2009年10月20日


プトレマイオス王朝(歴史)

 地中海の南岸、ナイル河流域に栄えていたエジプト文明は紀元前4000年とか紀元前3000年の時代には最初の王朝が生まれていたといわれている。ナイルの氾濫を予測するために暦や天体観測が発達して、肥沃な農地を配分するために測量の技術に優れていたし、大きな石を切り出して涼しく過ごせる家や建物を建てていた。そんなエジプト人だから天文や数学を得意にしたのもしごく当然だったろう。
 アフリカの地勢は奥地に行くほど山や砂漠やジャングルに阻まれるから、エジプトでも当然のように地中海沿岸での交易交流が盛んになる。そのエジプトに外国人が流入を始めたのが紀元前1200年頃、未だローマは建国もしていないがその頃にはエジプト文明は他民族に征服されたり復活したりしながらゆっくりとした衰退期に入っていた。そして紀元前332年、有名なマケドニアの王アレクサンダーがエジプトを支配する。マケドニアはギリシアの国であり、アレクサンダーが死ぬと将軍プトレマイオスがエジプトの王様になったからこれ以後エジプトはギリシア人の国になった。ミュージアムの語源になった有名な学問の府ムセイオン、ムーサイの神殿を建てたのもプトレマイオスだ。

 プトレマイオス王朝はギリシア人が治めるエジプトだが、国民はエジプト人だから王様もエジプト風に振舞うことにした。王様は神様を兼任して兄弟や家族同士で結婚したり、王と女王が共同統治したりするのもそんな風習の一つである。もちろん王族の結婚はギリシア人同士で行われて、女王には王の姉妹や母、叔母や姪なども選ばれたがクレオパトラやアルシノエといった名前はエジプトではなくギリシア女のものである。王族内での陰謀策謀がやたらと多く、紀元前55年には娘の手で追放されていた王プトレマイオス12世がポンペイウスの助けを得て復位している。王朝ができて200年ほどが過ぎていたが、結局は衰退してローマの属国のような存在になっていた。

 紀元前48年、ファルサルスの戦いで敗れたポンペイウスは再起を考えるが北アフリカに行くかエジプトに行くかで悩んだらしい。北アフリカには幾人もの仲間がいるが、今やカエサルはローマ本国から地中海の西、更にギリシアまで手中に収めている。なんとしても東方オリエント諸国の力を借りる必要があるが、敗軍の将にどこまで門を開いてくれるか心もとない。エジプトであればポンペイウスに恩義を感じているから手助けをしてくれるだろうか。
 ところが当時のエジプトを治めていたのは少年王プトレマイオス13世と彼の姉クレオパトラ7世で、権力争いの挙句クレオパトラは追放されて少年王と彼を補佐する宦官たちが実権を握っていた。短絡的に考えたのであろう、上陸するポンペイウスを出迎えるフリをして殺してしまった彼らは、遅れて到着したカエサルに生首を送りつけるとお前の目的はこの首だろうから早々にエジプトから立ち去りなさいと要求する。こんな応対を受けてカエサルならずともはいそうですかと引き下がれる訳がない、無残なライバルの姿に涙したカエサルは王の意向など構わずエジプトに上陸することを決意した。信義を重んじるローマ人は裏切りを心から嫌っていたし、ローマの要人であるポンペイウスがエジプト人に殺されたとは一大事である。

 これ以後、プトレマイオス王朝は衰退してエジプトの独立は失われることになるがエジプト人によるエジプトはアレクサンダーによってとうに征服されていたし、ギリシアがローマの属州になったのもずいぶん前のことだからあまり気にする人はなかったろう。カエサル上陸後、エジプトが滅びるまでの短い歴史はプトレマイオス王朝最後の歴史ではなく、有名なクレオパトラ七世フィロパトルの歴史として扱われている。
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