2009年11月10日


寛容(クレメンティア)(歴史)

 内乱に突入しても、それ以降もユリウス・カエサルが掲げていたのが寛容の旗印だった。ルビコン川を越えてイタリア半島を南下する際も統率を乱さず、中立な者は味方であると宣告して住民を慰撫したカエサルである。その後の戦いでも可能な限り兵士は倒すよりも捕まえるか逃げるに任せたし、捕虜は身代金すら求めず帰郷させて将軍であれば解放してポンペイウスの下へと戻らせた。
 それが政治的な意図によって行われたことは当然だろう。日和見を決め込みたい大多数の常識人としてはカエサルの寛容を受け入れた方が争いに巻き込まれずに済むし、解放された兵士や将軍だって執拗な抵抗をし難くなる。カエサルとしては背後で騒がれる心配が減るし内乱が終わった後のことを考えれば遺恨が残るのも好ましくない。「カエサルはスラではない」とたびたび語っていたが兵士にも民衆にもありがたい言葉だったろう。

 もちろん寛容なら反乱や反抗が起こらないということはありえないし、それを助長することさえあるだろう。カエサルはこれを指して自分自身に忠実であるべきとしているが、ポンペイウスの部下がポンペイウスに従うのは当然のことで何も悪いことはないということだ。であれば一度武器を収めた者もその決断に忠実に従うべきで、降伏してから反乱したとなればカエサルも無条件で寛容だった訳ではない。約束を破ることはローマ人が最も嫌う行為だった。
 では元老院議員はどうかといえば、カトーは対等の人間が対等の人間に許されるなどありえないと言うと自ら腹を割き、共和政に殉じてカエサルの寛容を否定してみせた。カエサルは自分がカトーを許す機会を与えられなかったことを残念に思うと言うだけだったが、大多数の議員はカトーを見習おうとはせずにカエサルの寛容に授かる道を選ぶ。内乱を終えてローマに帰還したカエサルは護衛隊を解散させてしまい、かわりに彼ら元老院議員にカエサルの安全を保障する宣言をさせた。内乱が終わったことをアピールするには武器を捨てて対話に替えるのが手っ取り早かったし、カエサルの護衛は金髪巨体にウホウホ言うガリア人やゲルマン人ばかりだから、町中で彼らを連れていては具合が悪いだろう。

 ところでキケローはファルサルスの戦いの後、イタリア半島に戻るとカエサルの帰国を待ってぼんやりと日を過ごしていた。カエサルは年来の友人だがキケローはポンペイウスに与した身だったし、まさかカエサルにとりなしてくれと頼む訳にもいかない。羞恥心があるのはもちろん、それこそポンペイウスを裏切る行為にもなりかねない。首都にいるアントニウスは自分がカエサルに取り次ごうかと声をかけてもくれたが、キケローは丁重に断るとカエサルの帰りを待つつもりだと言う。処断されるにせよ許されるにせよそれはカエサルが決めることだと。
 理性的な、立派な態度だがキケローという人は「泣き虫キケロー」と呼ばれるほど小心で逆境に弱い面もある。自分の行動が正しいとは思っていてもやっぱり不安で仕方がないから、この時期友人に宛てて情けないほど愚痴と泣き言に満ちた手紙を送り続けている。どうして君は僕を助けてくれないんだとか、僕のために何でもしてくれとか気の毒になるほどで、キケローを神聖視する人にはこの手の手紙は無視されることも多いがこんな小心なキケローが公正を損なおうとはしなかったのも事実だった。

 ちなみにこの手紙、アッティクスという彼の友人が編集して後に書簡集として発行したから現代になっても読むことができる。カエサルと並びラテン語を完成させたと言われるキケローだけあって、愚痴や泣き言すら見事な文体で書かれているラテン文学の傑作だがこれで儲けるアッティクスもよほどいい性格をしていると思えなくもない。
 結局カエサルがエジプトからオリエントを経て帰国するまで一年ほどもかかったから、キケローの心労は察するに余りある。イタリアの南端、ブリンディシの港は人でごった返してカエサルの帰国を待つ大勢の人にあふれていた。キケローは群集の隅で不安そうに立ち尽くしていたが、上陸したカエサルは親友の姿を見つけるとまっすぐにキケローの手を取り肩を抱いて、笑顔を浮かべて二人で街道を歩き出したという。その日のキケローの手紙はローマの奥方に宛てたもので、これから帰るから風呂の用意をしておいてくれというものだった。

 カエサルには彼に心酔する多くの部下がいて多くの愛人がいた。キケローは国家の父と呼ばれて国の象徴のように思われていた。だが彼らの友人は互いにカエサルとキケローだけではなかったかと思えてならない。
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