2009年11月17日
ハゲの女たらし(歴史)
内乱を終えて、周辺を鎮定したカエサルはローマに帰国すると大規模な社会改革に着手する。寛容を掲げて旧元老院派の登用も積極的に図る、とはいえ単なる人道主義からそうした訳でもない。カエサル派の要人には若い軍人が多く、彼らは体力も勇気も充分だが政治家や行政官としてのキャリアに欠けていた。ガリア戦役から内乱まで戦場をかけまわっていたから無理もないとはいえ、首都でカエサルの名代をしていた期待の護民官クリオは北アフリカで戦死していたし、副官アントニウスが体育会系マッチョマンときてはカエサル一人にかかる責任は大きい。
ローマ改革を主導するカエサルは最初10年、翌年には終身の期限で独裁官に就任する。スラが任期無期限で就任した独裁官に、堂々と終身で就くことを宣言したのだ。独裁官はローマの国体を変える以外は何でもできる権限を与えられていたが、もちろんカエサルはローマを変える意思にもあふれている。護民官特権と称する拒否権に肉体の不可侵権という、実効的な権力も手に入れた。
改革の骨子は属州の再編成や農地法の再承認、暦の改革など多岐に渡っているが、その内容は貧民救済を図ったガイウス・グラックスの改革や法制度の整備を試みたスラの改革に近い。カエサルの改革がグラックス兄弟はまだしもスラに近いといえば奇妙に聞こえるかもしれないが、彼らは派閥によらず公正な富の配分や市民権の拡大、通貨の安定化や属州統治の不正撤廃、判例で肥大した法律の再整備などローマに必要なものが何であるかは承知していたのだ。
ガイウス・グラックスは平民代表の護民官としてそれを行おうとしたが、それはローマに二つの政府を作る原因ともなった。独裁官として強硬な手腕で改革を進めたスラは、スラ以降にそれを続ける継続性を確保することができなかった。彼らの挫折を見たカエサルは一貫した継続する改革を志すが、それが共和政を破壊するならば改革にとって共和政こそが不要だと考えたろう。
カエサルはスラが六百人に増やしていた元老院の議席を九百人に増員して、金持ちの騎士どころかガリアの部族長までその座に据えてしまう。「ウホウホ言いながら議会への道を尋ねる元老院議員が誕生した」ことは市民の笑い種にもなったが、カエサルの改革では元老院は国の主導者ではなく、主導者に従い統治を助ける人々だから属州の現場責任者がいた方が都合がいい。勤勉で精力的な独裁者は首都はもちろん地方で行われる公共事業までも自分で計画したし、人を集めて検討や実施を行わせた。一年を三六五日にして四年ごとにうるう年を設けるユリウス暦を導入したのもこの頃だし、首都を囲う防壁を破壊して治安と防衛は属州を含めたローマ全土で行うことにも改める。通貨を整備し、市民権を拡大し、教育と医療を推進する独裁者は精力的でリベラルな改革者だった。
カエサルが王になろうとしていたかどうか、これは確証がない。当人は自分は王ではなくカエサルだと称して王冠の授与も断っているが、もちろん政治的なパフォーマンスに過ぎない可能性はある。だが少なくともカエサルが実質的な独裁権力を手にして王に等しい統治を行っていた点は否定のしようがないだろう。共和派の議員はカエサルの独裁を苦々しく思いながらも改革の成果を認めざるを得なかったし、兵士や市民、属州民は戦争の終結に喝采を挙げている。
首都で行われた壮麗な凱旋式はガリア、エジプト、ポントス、北アフリカはヌミディア王国への勝利に対するもので、内乱の勝利を勘定に入れずとも過去に例のない大規模なものになった。都の外から続く長い軍列が組まれ、捕虜や戦利品を積んだ車に戦果を示したプラカードが掲げられるパレードの列が首都ローマの中心、カンピドリオの丘にあるユピテル神殿へと向かう。町を練り歩く兵士たちは古来からの慣習に従って、勝利者を称える言葉を声高に叫んだ。
「さあ、市民よ女房を隠せ!ハゲの女たらしがお帰りだ!」
これを聞いて大笑いしたのがカエサル自身である。とはいえ世界を統治するただ一人の英雄でも薄い頭髪は気になっていたらしい。過去に例のない終身独裁官となり、ローマの全権力を手中に収めたカエサルは自分だけに与えられる特権として勝利者のしるしである月桂冠をいつでも被ることができる栄誉を手に入れた。祭祀のときは頭にトーガの布を被る、最高神祇官でもあったカエサルにとって平時にも被れる月桂冠は更にありがたかったに違いない。
こんな冗談と笑い話が似合う、ハゲの女たらしだからこそユリウス・カエサルは世界を征服できたのかもしれない。
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