2009年12月05日


3月15日(歴史)

 終身独裁官カエサルは精力的にローマの改革を進めたが、歴史と伝統ある共和政とやらは過去に追いやられて有名無実のシロモノと化していた。元老院や執政官は独裁官の補佐役でしかないし、市民集会も平民集会もカエサルの改革を追認するだけの機関に成り下がっている。伝説ではカエサル自身が「共和政は真昼の夢で私の言葉は法律になる」と豪語したともいうし、部下たちがカエサルに王冠を薦めるような素振りも見られるようになっていたから共和派の人々が感じる危機感は強くなる一方だった。なにしろ具合の悪いことに、独裁的なカエサルの改革はローマに恩恵をもたらして人々は彼に熱狂するばかりだったから、さんざん内紛を繰り返した共和政を支持する人ももはや多くはない。キケローすら引退して文筆業に専念しようかと、友人に愚痴をこぼしていたほどだ。

 陰謀の発端はカシウス・ロンギヌスだった。金持ちクラッススがパルティア戦役で敗れた折りに、シリアに撤退して国境を守っていた人物である。その彼が首魁として担ぎ上げることに成功したのが人格高潔で知られるマルクス・ブルートゥスだ。ブルートゥスは共和派の元老院議員で内乱ではポンペイウス陣営に身を投じていたが、ファルサルス後にカエサル直々の通達によって救われている。愛人セルヴィリアの息子でカエサルの実の子ではないかとも伝えられているが、両人の年齢は十五歳程度しか開いていないからたぶん血のつながりはなかったろう。
 このブルートゥス、同名で共和政ローマを建国したルキウス・ブルートゥスに憧れていたし妻はあの小カトーの娘ポルキアである。カエサルに心酔する筈もないがカシウスの陰謀に加担するに際して「たとえ父でも独裁者に従うべきではない」と話したそうで、愛人の息子だから助命されたと思われるような立場はブルートゥスならずとも心労のタネだったに違いない。とはいえカシウスは人に好かれる質ではなかったから、ブルートゥスがいなければ協力者を集めることはできなかったろう。

 彼らの大義名分は人に問われるまでもない。カエサルによって破壊されつつある共和政を守護する戦士になることだが、ブルートゥスにとっては改革者カエサルが独裁者に堕していくのを止めるには今しかないと自分を納得させていたかもしれない。紀元前44年、カエサルはクラッススが途上で挫折していたパルティア遠征を完遂するつもりで軍を集結させようとしていたが、巷の噂でパルティアは王によって征服されるとのお告げがあったらしく遠征を成功させるにはカエサルを王にしなければならない、と言われていた。噂の信憑性はともかく、このような噂が上げられたパルティア遠征が成功すれば彼が王になると言ったとしても止める手段はないだろう。議会は3月15日に開催されて、ひとたび戦場に出ればカエサルが勝利を手に帰ってくることは疑いない。

 前日の14日から事件の当日にかけて、史料は伝説の色合いを濃く残している。晩餐の会話のテーマは自分が望む死についてであり、カエサルは予期しない突然の死がいいと言った。妻のカルプルニアは夫が血に染まる夢を見たといって主人を止めようとするが、パルティア遠征とその間の統治を決める議会をまさか夢で休むわけにはいかないだろう。カエサルが出立して後、陰謀を伝えに家に伝令が駆け込むが一足違いで間に合わない。
 議場となるポンペイウス劇場に向かうカエサルを呼び止めた占い師が3月15日に注意しろと言うと、カエサルは笑ってそれは今日じゃないかと言い返す。柱廊を歩くカエサルに巻紙が渡されると陳情書と思って懐にしまったが、それこそ陰謀を伝える密告の手紙だった。

 劇場に入るや否や幾人もの若者たちが手に手に刃物を持って襲いかかる。ほとんどがカエサルの見知った顔であり、何本もの凶刃が独裁者を貫く。伝えによれば刺し傷は二十三にも及んだが致命傷となったのは一つだけで、興奮して振り回される暗殺者の刃で怪我をする仲間すらいた。一人に目を向けたカエサルは「ブルートゥス、お前もか」で知られる有名な台詞をつぶやくと自らのマントで自らをくるむようにして、かつてのライバルであったポンペイウスの騎馬像の前に倒れたという。
 史料では死に瀕したカエサルは一言呻いただけで倒れたともいうが、一説にはこの台詞と呟いたという伝えもあると言われている。ブルートゥス云々の台詞自体はシェイクスピアの創作で、実際にはギリシア語で「若者よ、お前もか」と称していたというからカエサルが見定めた相手が当時四十歳前後のマルクス・ブルートゥスという保証はない。暗殺者にはカエサルが信頼した若きデキムス・ブルートゥスの姿もあり、愛人の子ではなく彼を指してカエサルはつぶやいたのではないかという意見もある。いずれにせよただ一人でローマを改革し、それを完成させつつあった独裁者の生涯は彼が望んだ予期せぬ突然の中断を余儀なくされたのである。

 だがもう一つ、生前のカエサルが残していた言葉がある。カエサルはローマに必要であり、もしもカエサルを失えばローマは平穏でいられず、悪くすれば内乱が起こるだろう。その言葉のままに独裁者の死はローマに新たな内乱の扉を開くことになるが時は紀元前44年3月15日、新たに登場する主人公はその時未だ、人に名前すら知られた存在ではなかった。
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