2010年01月06日


キケローへの評価(歴史)

 古代ローマでも最上のラテン語作品を残した人物はユリウス・カエサルと歴史家のタキトゥス、そしてキケローの三人とされている。マルクス・トゥリウス・キケローはカエサルの無二の友人だが政治的には対立しており、共和政ローマの最後を象徴する人物の一人でもあるが日本を含む一部の文化圏では彼に対する評価は決して高くない。泣き虫キケローとすら呼ばれる、彼の人間的な弱さと日和見にも思える遍歴の賜物だが文人や政治家としての能力と人間性は本来、同一に語られるべきものではないだろう。奇人変人を排除すれば歴史から多くの偉人が消えてしまう。
 14世紀にイタリアルネサンスが開花したことによって、キケローの思想はイタリアやフランスを主流とするヨーロッパの思想となった。モンテスキューやヴォルテール、ニッコロ・マキアヴェルリら多くの思想家が共和主義や民主主義の象徴としてキケローを賞賛している。一方でフランスに対抗するドイツはルネサンスを経験しなかったこともあって、19世紀になると国策にも等しいレベルでキケローを槍玉に挙げて反対にカエサルを賞賛する声が大きくなった。テオドール・モムゼンがノーベル文学賞を受賞したことによってキケロー批判は頂点に達してしまい、やはりルネサンスを経験せず共和主義や民主主義の思想を知らない日本でもキケローを称賛する声は少ない。

 元老院と平民集会が二つの政府となって対立する、共和政末期のローマにおいてキケローはその問題点を正確に把握して解決を望んだ者の一人だった。グラックス兄弟は護民官として平民集会を利用することによって、スラは独裁官として元老院を強化することによってローマの改革を図るが一方の試みは中途で挫折していたし他方の目論見はわずか10年で瓦解している。
 分裂するローマを統合する主導者がいなければならぬ、当時そう考えた二人の人物がキケローとカエサルだった。両者の違いはキケローが多くの権威と名誉を持つ第一人者が主導すべきだと考えたことに対して、カエサルはその指導者に実態のある権力まで求めていたに過ぎない。だがこれを指してキケローの思想は共和政の枠内に留まり、カエサルはそれを超克していたとすれば間違いだろう。後に皇帝アウグストゥスがローマ帝政を創設するが、彼が構築した政治制度は多くの権威を名誉を持つ第一人者が執政官や護民官を兼ねて事実上の独裁を行うというもので、それはキケローとカエサル双方の思想を体現しているのだ。

 内乱におけるキケローの変節を非難する声は多い。カエサルに対立しながらポンペイウスの首都脱出に従わず、情勢が変わったところでギリシアに渡るがファルサルスを終えるとイタリアに帰りカエサルの友誼に助けられている。内乱当時の遍歴を見れば確かにその通りだが、そのキケローはこんな言葉を残してもいる。

「最も正しい戦争であれば、私は最も不公平な平和を選ぶよ」

 忘れてはならないのが、軍人が政治家になる古代ローマでキケローはほとんど例外的にただ一人、軍務経験なく国を治めたローマ人だったということだ。兵士たちが掲げる剣と踏み鳴らす軍靴の音に囲まれる中で、キケローだけは対話と法律によって国を守ろうとした人物だった。古代の軍事国家でシビリアン・コントロールを志した人物が弱虫や泣き虫であったとして、誰が笑うことができるだろうか。

 無論、キケローにも問題や欠点がなかった訳ではない。実力行使ができない彼は法や裁判に拘泥せざるを得ず、現在の弁護士の祖とも呼ばれる論調を生み出したが、そんな弁護士の会話や演説は煽動的なだけに人から嫌われることも多い。弟はカエサル下で堅忍不抜の活躍を見せたがまさか内乱でカエサル派につかせる訳にもいかず、ポンペイウス派が敗退した折には乗る船を間違えたとなじられることになる。カティリーナ事件では「祖国の父」として栄誉を得たキケローだが内乱終結後は文筆業に専念して政務からは遠ざかってしまった。自害した小カトーの生涯を讃して「カトー」を記し、カエサルが「アンチ・カトー」を記してこれに反論しているが、彼らは政治思想で対立しながらあくまで対等の友人でもあった。
 キケローの名声はカティリーナ事件の前後を頂点として、やがて衰えると共和政ローマの消滅も帝政ローマの誕生も見ることなく歴史の舞台から姿を消すことになる。だが共和政はある日突然滅びた訳ではないし、帝政も不毛の荒野に突然誕生した訳ではない。混迷するローマで改革を志した政治思想の源流、その二つはカエサルとキケローの二人から流れ出でているのである。
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