2010年02月17日


暗殺直後(歴史)

 独裁官カエサルが打倒された当時のローマはどのような姿をしていたか。地勢的にはイタリア半島を中心にして西はスペイン、南はアフリカ沿岸からエジプトを巡り東は近東からオリエント諸国を網羅、カエサルの遠征によってライン川の西、ヨーロッパ一帯と現イギリスのあるブリテン南岸まで傘下に入っている。複数の国を統べる中央政府、それは共和政でもカエサル独裁の時代でも変わらず、ローマは共和政の当時から「帝国」と呼ばれていた。

 政治制度といえば専制と民主政しか知らないというのは現代人だけで、マルクス・ブルートゥスやカシウス・ロンギヌスらが復活を望んだ共和政はこのどちらでもない寡頭政とも呼ばれている。外見では元老院議員による統治が行われているがローマはこれを単なる貴族政治に終わらせなかった。元老院には富裕な、あるいは功ある市民が新しい議員として迎えられて市民集会を構成していたしこれに並立する平民集会が存在する。政治思想家のニッコロ・マキアヴェルリは王政(執政官)と貴族政(元老院)と民主政(平民集会)が鼎立する共和政ローマを称賛しているが、ブルートゥスが望んだ共和政ローマはこの姿であったろうしマルクス・キケローもそうだった。
 グラックス兄弟に始まる混迷と内乱の時代を終結させたカエサルはローマを健全に立ち直らせていく。それが独裁であるとしてブルートゥスは恐れキケローは嘆いたが、人々にとって重要なのは高尚な政治思想ではなく安心して外を歩けるローマである。スラやマリウスが蹂躙し、クロディウスやミロがギャングさながらに流血沙汰を繰り返し、元老院議員が逃げ出したローマを鎮めたのがユリウス・カエサルなのだ。

 3月15日。独裁者は倒した、自由は回復したと叫ぶ暗殺者の一団だが議場には人影がなく元老院議員たちも姿を隠してしまっていた。彼らは広場に出ると同様の演説を行うが周囲の反応は重々しく不穏な空気がたちこめている。内乱から解放されたばかりの人々は突然の凶報が新しい内乱の始まりを意味していることを肌で理解していたのかもしれない。ブルートゥスもカシウスも首をすくめるようにして広場を去るが家に帰ることもできず、神聖不可侵なカピトリーノの丘上にあるユピテル神殿に集まった。暴君を倒した英雄の興奮はすでに冷めている。
 不安げに顔を見合わす、暗殺者たちの前に現れたのがキケローである。すでに政治家として一線を退いていた彼は独裁者を打倒した彼らの行為を認めると、ただちに元老院を召集して共和政復帰を宣言しなさいと忠告した。このキケローを非難する声は多々あるが、知識人である彼は友人カエサルの死を嘆いていたとしてもこう言うしかなかったろう。カエサルが死ねばローマは分裂して内乱に突入する、多くの人が死ぬ。それを避けるには「カエサルの後がまを狙う人々」が登場する前に共和政を復活させるしか道はないのだ。だがマルクス・ブルートゥスの返答はこうであった。

「元老院は執政官が召集するものだ。自分は執政官ではない」

 実に法に則った主張だがこの答えはキケローを失望させるに充分だったろう。暗殺までしておいて法も何もあったものではないし、であれば執政官アントニウスの家に駆け込んでも元老院を召集させればよいではないか。やむなくといったところか、キケローはカエサル第一の腹心でもあったアントニウスに人を送ると暗殺者たちの寛恕を願い出る。元老院が召集されるがカエサルを殺した者たちに展望がないのであれば、混乱を防ぐためにはカエサルの政策をすべて引き継ぐより仕方がなかった。
 予定されていた法案はカエサル自身が司令官となるパルティアへの遠征を除いてすべて承認された。マルクス・ブルートゥスとカシウスの二人をオリエントの属州総督として派遣することも了承されて、暗殺者は首都を離れることを許される。何のための暗殺であったのか、とはキケローやブルートゥスたち自身の嘆きであった。

 キケローの薦める通りに共和政復帰を宣言していたとして、それが成功していたかどうかは分からない。だが少なくともその提案が退けられてキケローが失望した、その時に共和政ローマは最後の可能性を摘み取られたのである。
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