2010年03月03日


遺言状(歴史)

 ところで古代ローマは家族社会だった。例えばある家では長男がすべて同じ名前になる例もあって、グラックス家にはティベリウス、クラウディウス家にはアッピウスがやたらと多かったりもする。男性の名前はガイウスにティベリウスにマルクスなど種類がやたら少ないし、女性に至ってはユリウス家は全員ユリア、クラウディウス家は全員クラウディアと固有の名前すら持っていなかった。たいへんな差別のように思えるがそうではない。男の名前にしたところでグラックス家の長男とか、ユリウス家の家長という以上の意味は持っていないのだ。
 こうした社会では当然、遺言や相続といった風習が実に重要になってくる。ローマでは故人が使用人や奴隷、投票してくれた支持者に遺言で金を配る例もあったし目をかけていた有望な若者に遺産を贈る例もあったが重要なのは金や土地を誰に贈るかではなく、家を誰に譲るかだった。ローマでは相応の地位や立場を持つ者は老齢にいたる前から遺言状を書いているのがふつうで、必要があれば折りに触れて書き直してしまう。

 暗殺されたカエサルにも当然遺言状が残されていた。以前に書かれていたそれは内乱の時期に書き直されていたというから、それまでは姻戚関係にあったポンペイウスらを相続人にしていたのだろう。カエサル第一の腹心を任じるマルクス・アントニウスは自分こそがカエサルの後継者にふさわしいと思っていたから、古式どおりに遺言状をウェスタ神殿に収めると主不在のカエサル家の金庫を押さえてしまう。カエサル家の金庫は国庫と区別がつかなかったから、執政官アントニウスの強欲ばかりが原因ともいえない。
 カエサルには息子がおらず、ポンペイウスに嫁いでいた娘のユリアも早逝していたから直系の跡継ぎが誰もいなかった。愛人は幾人もいたが子供といえばエジプト女王クレオパトラの息子カエサリオンだけである。彼がカエサルの血を引いているかどうかは諸説あるが、時期的にはナイル周遊の前後に孕ませていても不思議はない。カエサル自身はカエサリオンについて何も言及したことはないし息子として認知されてもいなかった。

 マリウスの復讐の時代にカエサル家の家族親族はほとんど殺されていたらしい。スラの処罰者名簿に名を挙げられた当時のカエサルが、カエサル家の跡継ぎは彼しかいないからと見逃されてもいる。であればカエサルが倒れた後にこれを継ぐのはカエサル派の有力な幕僚、すなわち自分しかいないだろうとアントニウスが考えたのも無理はない。何しろその年、アントニウスはカエサルの同僚執政官でカエサル亡き今ただ一人の最高位者である。
 カエサルの後継者たろうとするアントニウスの態度は元老院議員を忌避させたが、ブルートゥスやカシウスを助けるためにキケローがアントニウスに寛恕を願ったように仕方のないことだと思われていたようだ。アントニウスにすれば同僚クリオは北アフリカで戦死していたしバルブスは解放奴隷出身、「潔癖ブルートゥス」とまで呼ばれたデキムス・ブルートゥスはよりにもよって暗殺者の一員である。残るは自分しかいないではないか。

 執政官アントニウスは元老院を主導してカエサルが予定していた法案のうち、パルティア遠征に関するもの以外をすべて成立させてしまう。元老院を主導することは執政官の責務であり、首都を統括するのも執政官の責務である。カエサルが予定していた属州人事もそのまま踏襲したが、ブルートゥスとカシウスをそれぞれマケドニアとシリアの総督に任じて脱出することだけは認めてやった。キケローらも安堵して胸をなで下ろす。
 ここまでやったところでアントニウスはカエサルの遺言状を公開する。遺言状にはこう書かれていた。カエサル家の資産や別荘はそのほとんどすべてが市民に贈られる、そして遺言執行責任者としてはデキムス・ブルートゥスとマルクス・アントニウスの名が挙げられていたが、カエサルの後継者が辞退した場合にはデキムスを後継者に指名するとも書かれていた。つまり後継者ナンバー・ツーに暗殺者デキムスが選ばれていた訳だ。

 これを知ったときのデキムスの心中はともかく、アントニウスの驚愕はその点にはなかった。デキムス・ブルートゥスがナンバー・ツー、だがカエサルの後継者たる第一相続人として名を記されていた、そこにはガイウス・オクタヴィウスという聞いたこともない若者の名が記されていたのである。
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