2010年03月17日


彼の名はオクタヴィウス(歴史)

 カエサルが後継者に指名した無名の青年ガイウス・オクタヴィウスは時に若干十八歳、青年どころか少年と呼ばれても不思議のない年齢だった。いちおう叔父カエサルの妹の孫で、オクタヴィウス家は父の時代に元老院議員になっているが、かのカティリーナ事件の際にこの父オクタヴィウスが息子が生まれたので議場に遅刻したという記録が残されている。
 若いオクタヴィウスは線の細い美少年だったから、カエサルはベッドで後継者を決めたに違いないと揶揄されたが実際にこの少年は身体が弱く、すぐに腹を下してしまうので下着を何枚も重ねて薬を手放すことができないという有り様だった。ローマ人の服装は手足がむきだしのチュニカが主で、兵士ともなればこの姿で酷暑のアフリカにも厳寒のヨーロッパにも赴いたから虚弱な美少年オクタヴィウスがどのように見られていたかは想像に難くない。

 この頼りない少年が後に初代ローマ皇帝となる、その才能を見抜いて養子にしたカエサルの慧眼には感服するしかないという意見もあるがたぶん過大評価だろう。カエサルには実子がいなかったから甥を養子にしても不思議はない。そしてカエサルの部下は三十代の連中が中心で、幼い甥を支える人材には不足しない。であれば形式はともかくカエサルが真に後継者に考えていたのは第二相続人デキムス・ブルートゥスではなかったか。
 おそらくカエサルの構想は若いデキムスを中心した政治体制を作ることだったろうが、終身独裁官の地位をデキムスが継ぐとなれば彼の同僚は黙っていまい。だからカエサルの名を持つ後継者を設けてデキムスを首班とする政府がそれを支えるとすればごく現実的な思案だろう。カエサル自身も暗殺当時は五十代で、いざとなれば遺言状を書き直すことはいくらでもできる年齢だった。

 遺言状には遺産は市民に分配する、カエサルの名をオクタヴィウスに継がせる、その後見人にデキムスとアントニウスを指名するとある。だがオクタヴィウスなんて名前は誰も知らないしデキムスは暗殺犯という、この状況でアントニウスが黙っている筈がない。執政官であった彼は混乱を避けるためと称して実力で首都ローマを抑えてしまうと、暗殺者たちには彼らの身の安全を図るためとして首都から追い出してしまった。もともとパルティア遠征を前にして彼らの任地は決められていたから口実はある。マルクス・ブルートゥスとカシウスにも総督職を与えて首都から追い払ってしまうが、彼らを守りたいキケローら元老院派は妥協せざるを得なかった。

 この状況で若者オクタヴィウスが帰国した。多くの人々が止めたというが少年は意に介さない。権力争い真っ最中の首都で少年を歓迎する者は誰もいなかったが、オクタヴィウスもキケローやアントニウスに慇懃な挨拶をしながら彼らに歓迎されようとは思ってもいなかった。彼が求めていたのは別の人々の支持である。
 少年はせいぜい礼儀正しく、キケローやアントニウスに面会するとカエサルの遺言にある市民への遺産分配を行いたいのですと言った。ところがカエサルの金庫はもともと国庫との区別が怪しく、しかもアントニウスが抑えていたから手続きは一向に進まない。アントニウスにすれば当然の態度だが若いオクタヴィウスはカエサルと親しかった富豪連中に無心して金を借りまくると、市民兵士への遺産配分を実施してしまったのである。アントニウスは激昂してキケローは当の富豪をなじったが、控えめながらこれに反論する手紙が残されている。

「私はカエサルの死を哀しみたいのだ。それを行う少年に力を貸すことくらい好きにさせてほしい」

 カエサルを支持した人々は少年の誠実さとあざやかな手腕に好意を抱く。だがキケローやアントニウス、そしてオクタヴィウス自身もカエサルの遺産分配の本当の意味を理解していた。遺言状に書かれていた遺産の分配が行われたということはカエサルの遺言が執行されたということであり、それは無名の少年ガイウス・オクタヴィウスがカエサルの名を継ぐ意思を表したということなのだ。すでに彼は叔父カエサルを記念する盛大な競技会を行うべく人々の間を走り回っている。
 この時からガイウス・オクタヴィウスはガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと呼ばれることになる。カエサル後のローマにユリウス・カエサルを名乗る人物が登場したのである。
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