2011年01月03日


共和政ローマの滅亡(歴史)

 カエサル派の圧倒的な支持と武力を背景に執政官に就任した「神君カエサルの子」オクタヴィアヌスは未だ若干19歳。元老院議員になるには30歳、執政官になるには40歳以上という年齢制限があったから異例どころの話ではないが、この状況でかつてスキピオやポンペイウスに認めた特例を認めない訳にもいかなかった。プエル(少年)と呼ばれる新執政官はカエサル暗殺者の処罰を要求、元老院は反発するがカエサルの後継者は意に介さない。叔父のかつての腹心レピドゥスを間に立ててアントニウスと講和を図ると三人による共同統治を呼びかける。敗北の後でもアントニウスの兵力は健在で、容易に打倒できるものではなくアントニウスにしても勢いを取り戻す好機である。断る理由は存在しなかった。

 こうして第二次三頭政治と呼ばれる体制が発足する。イタリアとヨーロッパはオクタヴィアヌス、アフリカをレピドゥス、オリエントからエジプトまでをアントニウスが治めるというものだが、第一次三頭政治との違いはこれを公然と元老院に議決させたことだった。任期五年の非常措置とうたってはいるが、元老院と共和政は形式と法制度の上でもたたきのめされてしまった訳だ。
 もはやカエサル派を止めるものは存在せず、スラ以来の大粛清がローマを席巻する。カエサル暗殺の主犯だけではなく反カエサル派の元老院議員や官吏までを合わせたその数二千名以上。処刑されて全財産は没収、広場の演壇から生首がごろごろ転がり落ちた。処罰者の名簿が作られると人々は刑場に放り込まれていく。

 名簿の筆頭に自分と弟の名が書かれていることをキケローが知ったのは隠棲した先の別荘においてであった。追手の存在を知っていったんは逃げたものの港に着いたところで断念する。船酔いが酷くて引き返したとも弟の到着を待っていたのだとも言われているが、共和政復活の望みが潰えたことを知ったキケローにはたぶん生きる気力もなくなっていたのであろう。三頭政治の発足以降、演説はもちろん文筆どころか友人への手紙すら残していない。舌も手も使わなくなったキケローはもはやキケローではなかった。
 そのキケローの罪状はカエサル暗殺を精神的に主導したこと。アントニウスの部下に捕らえられたキケローは従容として首を差し出すと首どころか右手も切り落とされて首都ローマに送られる。「フィリッピカ」で痛烈に罵られたアントニウスはその恨みを忘れておらず、国家の父は国家の演壇でさらし者にされてしまった。

 あとはマルクス・ブルートゥスとカシウス・ロンギヌスの両名を残すのみである。マケドニアとシリアで属州総督の任にあった彼らは半ば自暴自棄であったろう、住民を奴隷に売り財産を徴発して強引に金をかき集めると兵士を雇い入れて決死の抵抗を試みる。共和政ローマ最後の華というべき派手な略奪行為を受けて、人々はアントニウスとオクタヴィアヌスを歓呼の声で出迎えた。
 紀元前42年フィリッピの決戦、両軍の激突は残念なことに戦史家の興味をそそる内容に乏しく仔細な記録は残されていない。戦場に出れば負けるオクタヴィアヌスは軍事の素人ブルートゥスにすら押されまくるが、アントニウスは剛勇を発揮してカシウスを粉砕、敗れたカシウスが自決して果てるとブルートゥスも抵抗をあきらめて自ら白刃に身を投げた。オクタヴィアヌスの軍は僚友アグリッパが率いていたが、後の勇将も主人と同年の若輩ではいかほどのこともできなかったようだ。

 こうして共和政ローマは滅亡した。今度こそ本当に滅亡した。カエサルが終身独裁官に就いて事実上はすでに滅んでいたが、精神的な主導者であったキケローも最後の象徴であったブルートゥスも失った今、共和政を支える思想は失われて元老院はこれ以後永久に権威を取り戻すことはない。だが共和政の滅びたローマがすぐに新しい時代に向けて走り出した訳でもなく「内乱の一世紀」は未だ終わりを告げてはいなかったのである。
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