2011年03月04日


安全保障(歴史)

 ところでこの時期、ローマの国境はどのような状況であったのか。共和政の時代に名将スキピオらがアフリカやオリエントを制圧して後に偉大なるポンペイウスが地中海やユダヤを平定、ユリウス・カエサルがガリアやゲルマンを圧倒してローマの版図は拡大していた。ローマ人自身が「我らの海」と呼んでいた、地中海を中心にする広大な地域のことごとくはローマやその同盟国によって占められていたのである。
 内乱を経て独裁官となったカエサルは、広大なローマを統治するための防衛戦略について一つの象徴的な活動を行っている。それは首都ローマを囲っていた古い防壁、王政時代の遺物であるセルヴィウス城壁を破壊して撤去したことであった。都市には防壁など設けず、安全保障はすべて国境線で行う。建国以来、ローマは都市国家の集まりではない「共同体」レス・プブリカであるという原則をカエサルは首都の行政レベルで表明したという訳だ。

 そのローマの国境だが、北から順にたどってみるとガリアとゲルマニアを隔てる境界線であるライン河をさかのぼり、黒い森と呼ばれているシュヴァルツバルトを経て今度はドナウ河を東に下って黒海へと到る。東の防衛線は大国パルティアとの境になるユーフラテス河を南下してユダヤやエジプトまでを抱え込み、アフリカ沿岸では広大な砂漠地帯を臨む街道とその周辺地域そのものが国境として扱われていた。大雑把にいえばヨーロッパと中近東は河川で区切られているが、アフリカでは無人の砂漠や荒野が漠然とした国境になっている。
 古代の国境とは防衛線とほとんど同義だから、襲来する蛮族や敵国をどうやって追い払うかが重要になるのは当然だろう。河川を利用すれば随所に砦を建てることでこれを見張ることができるし、橋をかけたり落としたりするのはローマの十八番だったから防衛も楽だった。これが砂漠や荒野になると、見晴らしが良くて助けは呼びやすいが防衛そのものは難しくなる。とはいえアフリカには放浪する野盗や小規模な部族程度しかいなかったから問題はない。

 だが国境周辺がどのような地形をして誰が暮らしていたとしても、ローマが基本戦略として行っていたことがある。それは国境を越えて深く攻め入り、隣人を存分にたたきのめしておくというものでこれは共和政の時代からまるで変わらなかった。いかにも野蛮で暴力的な方法だが、残念なことに相手も野蛮で暴力的な連中だったからこれが一番効果があった。毛皮を着てウホウホ言う白人に、会談のテーブルを用意しても腕相撲でもやるのかと言い返されるのがオチなのだ。スキピオもルクルスもスラもポンペイウスもカエサルも、そうしてローマの国境線を敷いてきた。

 とはいえこのように「たたきのめされていない」ローマの隣人が当時まだ二つ残されていた。一つはドナウ河の北岸ダキア地方に暮らしている野蛮な白人たちであり、もう一つは金持ちクラッススがパルティアン・ショットの餌食となった東の大国パルティアである。暗殺直前、カエサルが予定していた人事はこのパルティアへの遠征を目的にしていたが、帰国後はその足でダキアに向かえるようにドナウ流域に部下を配置していた。
 ローマの第一人者の地位を狙うマルクス・アントニウスがこのパルティア遠征を志したことはカエサルの事業を継ぐ身としては当然だが、建国以来の安全保障としてもそれは自然な流れであった。だからこそエジプト滞在に時を費やしたアントニウスがパルティア遠征を遅らせたことは人々の眉をひそめさせるに充分だったのである。

 結局のところパルティアの安定とダキアの平定は先送りされることになり、これらは帝政ローマの重要な国家事業となるがその実現は後の五賢帝の時代を待たなければならない。
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