2011年04月12日


異国での凱旋式(歴史)

 誰もが予想できたことだが三頭政治は事実上崩壊していた。レピドゥスはとうに失脚して、この時期のローマは西のオクタヴィアヌスと東のアントニウスが対立する舞台としてのみ存在しているかにすら見える。だがイタリアやスペイン、シチリアの反乱など着実に鎮定していたオクタヴィアヌスに比べてアントニウスにはカエサル没後は目立った武勲もなく、この状況を打破するためにもパルティア遠征はなんとしても成功させる必要があったろう。
 十万を数える大軍が出立、暗殺直前のカエサルの遠征が成功すれば誰がカエサルの後継者にふさわしいかを万人に知らしめることになるだろう。勇躍砂漠の地に乗り込んだアントニウスだがそもそもの問題はこの時期、パルティアにローマと戦う意思がないということだった。

 カエサル下で剛勇を誇った武人アントニウスだが全軍を率いる総司令官としてはそれまでとは事情が異なってくる。パルティア攻めの策はいくつかあり、例えばローマ得意の戦法である、大軍で周辺地域を派手に荒らしまわって相手の力を削ぐという手法もなくはないがオリエントの商人が行き交う通商路を荒らすのは剣呑だろう。であれば東方ローマ軍団伝統の、短期決戦で進軍して首都を急襲して攻略、降伏させて戦利品を巻き上げたら早々に引き上げるという作戦がやはり現実的だったろう。所詮は名目上の勝利に過ぎないが、何かあったらまた同じことをするぞというデモンストレーションは立派な抑止力にはなる。
 ところがアントニウスは戦場の勇者らしく、軍団を並べて堂々と正面決戦をすることにこだわったらしい。対するパルティアは小競り合いにこそ応じたもののすぐに馬やラクダに乗って逃走、逃げる敵を追うアントニウスだが十万人の兵士に砂漠で追いかけっこをさせたものだから暑さで皆がばたばた倒れてしまった。これ幸いと反転したパルティア軍を相手に補給部隊が襲われると、犠牲と出費ばかりが増えて戦果も略奪品もないという体たらくが数ヶ月続き、とうとう損害に耐え切れず空しく撤退を決めたアントニウスは意趣返しに隣国アルメニアに軍を向けると服属を誓わせるがこんなものはとても武勲と呼べる代物ではない。

 遠征の失敗に意気消沈する司令官をクレオパトラが慰めようとしたのだろう。アントニウスは女王の薦めもあってローマに帰らずエジプトで凱旋式を挙行することを決める。首都ローマのユピテル神殿で行うべき凱旋式をエジプトで、異国の神々に捧げるというのだからアメリカの騎兵隊長がナバホ族の集落で戦勝パレードを行うようなものだとすれば言いすぎだろうか。いずれにしてもローマ人にとっての祭儀とは宗教儀式というよりも国民的行事に近かったから、それを他所の国で行うなど無礼千万極まりない。
 こうしてローマ人の口を大きく開けさせたアントニウスはそれが塞がる暇も与えずにオクタヴィアを離縁して正式にクレオパトラと結婚、彼女の子であるカエサリオンを王太子に立てることを発表する。更にこのカエサリオンはもちろん、女王との間に生まれた双子にまで東方一帯の支配権を割譲することまで宣言した。形式だけを見ればカエサルの落胤を擁してローマ全土を臨むつもりでいたのかもしれないが耳を疑う暴挙というしかない。クレオパトラの富とアントニウスの武勇、オリエントの民を結集すれば一大勢力を築くことができるとでも考えたのかもしれない。だがローマの主権者はカエサルの血縁者ではなくあくまでローマ伝来のSPQRなのである。

 有名なシェイクスピアの戯曲に歌われるアントニーとクレオパトラ。彼らの間にはそれを支える野心や恋情が存在していたかもしれないが、ローマ人が信義を重んじる民族であり、裏切りを決して許容しない民族であることを忘れたことは彼らの不幸だったろう。元老院や市民が仮にオクタヴィアヌスを嫌っていたとしても、アントニウスがローマの半分をエジプトに売り渡すとなれば彼らは団結することができるのだ。アントニウスとオクタヴィアヌスの対立構造とは関係なく、三頭政治の権力闘争は人々が気がつけば内乱ではない、侵略者エジプトに対する防衛の戦いへと変容しつつあった。
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